上野彦馬、戦場カメラマンの先駆者、幕末志士を撮影し、日本初の写真館を開いた男

日本の写真家〈1〉上野彦馬と幕末の写真家たち

長崎で「幕末スター」を軒並み撮影した男

四国高知の桂浜に建てられた、太平洋を見つめている坂本竜馬の像は、彼の生前の写真を参考に作られたものだと作られたものだと言われています。

そんな風に幕末の志士たちの写真はかなり残されていますが、それを撮影したのが上野彦馬という男です。

彼は長崎町人で技術者の上野俊之氶の次男として生まれましたが、その父親は日本で初めてダゲレオタイプ銀板写真)を試みた人物である。

父の死後、家督を継ぐと豊後日田の広瀬淡窓に学び、長崎に戻ってからはオランダ語や化学を学びました。父と同じく写真に魅せられた彦馬は、その後、写真機や薬品の研究を続け、フランス人写真師からも写真を学んだ。


その集大成として、彦馬が長崎に「上野撮影局」という日本初の写真館をお開いたのが1862年のことでした。


時期が時期だけに、長崎を訪れる志士も多く、先の坂本龍馬のほか後藤象二郎高杉晋作伊東俊介(のちの博文)、桂小五郎(のちの木戸孝允)、などが彦馬に写真を撮ってもらう。

西南戦争に従軍し、戦争カメラマンの先駆者に

この時代はほとんどが肖像写真ですが、彦馬の写真家としての先進性は、維新後も発揮される。1877年の西南戦争には、なんと従軍カメラマンとして同行していた。


彦馬は、長崎県令の北島秀朝からこの仕事を依頼されていて、直接の発案者は征討軍の川村純義であることを北島は彦馬に伝えています。


従軍カメラマンとしては、彦馬以外にも既に征大の役や萩の乱にもその姿が見られたが、彦馬が撮影した量の多さとレンズが切り取った写真の報道性を考えると、のちの日清・日露戦争に従軍した陸軍測量部の写真担当者たちは与えた影響の大きさが伺えますね。


カメラマンといっても、いまのように小型カメラを使っているわけではない。助手二人と、暗幕や原板入れ、湿板写真機本体などの運搬係8人という「撮影部隊」とも言えるような大仕事だった。


この撮影部隊が、激戦地として知られる田原坂に到着したときは、すでに戦いは終わった後でした。

それでも彦馬は、生々しい弾痕が残る民家の土蔵、砲弾で削り取られた松の杖、大砲でえぐられている山肌などを湿板に記録しました。そのおかげで、人々は田原坂の決戦の凄まじさを実感することができたのだ。


また熊本の町へ入ってからは、戦禍に見舞われて瓦礫の山となった街並みや、反対にすべてが焼け落ちて、ぽつんぽつんと残された立木や土蔵などを写して回った。ここでは、別班を作っていた弟子たちと出会って、彼らが野戦病院の兵隊たちの姿を写していたのを知りました。


彦馬自身が撮影した写真は、さらに進んで鹿児島に入り、城山の砲塁を写したものも含めて風景のみで、兵士の死体が写ったものは一枚もない。官軍・賊軍とは分けていても、戦争自体に正義も不正義もないという、彦馬の戦争観をよく表すものだと評価されるのはこの点です。


この仕事の後、彼は写真をただの技術の巧拙だけでなく、対象の命や心を表現するものとして極めていく道に分け入り、そのための機材や薬品の改良にもいっそうの熱を加えたのでした。

レンズが撮らえた幕末の写真師 上野彦馬の世界

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ビジュアル版 幕末 維新の暗号

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