家康は関ケ原他の戦いの戦前の準備に貢献した武将に恩賞を与えた

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関ケ原 徳川家康本陣跡

家康は豊臣方の武将を味方につけるきっかけを作った福島正則を高く評価

東軍の勝利に終わった関ケ原の戦いの後、総大将・徳川家康による東軍の武将に対する論功行賞が開催された。論功行賞とは、戦に参加した武将らがどのくらい戦功があったかを論じ、それに応じた恩賞が与えられる会議です。

恩賞として与える領地は合戦で打ち負かした敵軍の武将たちから没収・滅封・転封によって得たもので、関ケ原の戦いでは西軍に属した諸将らの所領から416万石を没収、また216万石を減封・転封によって得ている。

家康は東軍に属した諸将に大盤振る舞いともいえる恩賞を与えました。


例えば、福島は、尾張国清洲20万石から安芸国広島49万8000石に転封となり、一気に約30万石も加増されました。

その理由は、正則が豊臣恩顧の諸大名でありながら東軍の勝利のために大きな貢献があったからだ。正則の貢献は、関ケ原での本戦での活躍ではない。


1600年7月25日、家康は下野国小山で「上杉征伐」に従軍した諸将を集めました。そこには正則をはじめ加藤嘉明黒田長政池田輝政など豊臣恩顧の諸将がいました。

その席で、家康は石田三成が挙兵したことを告げ、「秀吉公の恩を受けられた方々は早く大坂に戻り、三成に味方したいと思う人もおられるでしょう。そうであれば、そのようにされても少しも恨みに思いませぬので、各自、思うように行動されるがよろしいでしょう。」と伝えた。


張り詰めた空気が漂う中、真っ先に口を開いたのが正則でした。


「挙兵は秀頼公の命によるものとのことですが、8歳の幼君がかようなことをお考えとは思いませぬ。これは三成が謀ったことに違いありませぬ、他の方は分かりませぬが、この正則は内府に御味方します。」

この一言によって、他の豊臣恩顧の諸将も次々と家康に従うことを誓い、東軍は強力な援軍を得ることができました。合戦の行方を左右したこの重要な会議は「小山会議」として広く伝えられている。

上杉家を押さえ戦わずして高評価を得た結城秀康と蒲生秀行

家康は正則の小山会議での発言に感謝し、その貢献に応えて大盤振る舞いの恩賞を行いました。そこで、関ケ原の戦い論功行賞で最大の恩賞を与えられたのは正則であると思っている人が多い負い。


しかし、それは誤解で、実は正則以上の恩賞を与えられた武将がいた。1人は池田輝政であり、三河国吉田15万2000石から播磨国姫路52万石へ転封されました。また、黒田長政豊前国18万石から筑前国52万石へと移されています。


では、輝政や長政が最大の恩賞を与えられた武将かと言えば、実は、彼らのように関ケ原の戦いの本戦や前哨戦である岐阜城攻めなどで戦功のあった諸将よりも、さらに多くの恩賞を与えられた武将がいたのでした。


その武将とは家康の次男・結城秀康と蒲生秀行です。秀康は下総国10万1000石から越前国福井75万石へ、秀行は下野国宇都宮18万石から陸奥国会津60万石へ転封となり、家康から最大の評価を受けました。


この二人が評価された理由は、会津上杉景勝に対する押さえの役を果たしたからでした。家康は三成挙兵の急報に接し西上を決意したが、その際、気がかりだったのが、会津の景勝、直江兼続の存在でした。家康の軍勢が西上した後、景勝の軍勢が出陣してしまえば、家康の軍勢は三成の軍勢と景勝の軍勢に挟まれ、壊滅するおそれがあったのでした。


そこで、景勝を封じ込めるために配置されたのが総大将・秀康と秀行は戦わずして論功行賞で最大の評価を得たわけです。

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