毛利元就、お金の工面に苦労しすぎて、贅沢ができなかった中国地方の覇王


吉田郡山城跡の毛利元就墓所

毛利元就埋蔵金伝説

以前、衆院選では民進党から希望の党に多くの議員が移っていきましたが、民進党が得ていた政党交付金や寄付金ってどうなってしまったんでしょうかね?そのまま死蔵??


そんな感じで自分に関係のないお金の心配をしながらこの記事を書き始めたわけですが、戦国時代にも世の中に流出せずじまいでお金を死蔵させてしまった例がたくさんありました。いわゆる「埋蔵金伝説」ですね。


豊臣秀吉武田信玄明智光秀など多くの有名な武将に「隠された財宝」の伝承が残りますが、中国地方の覇者・毛利元就にもたんまりと埋蔵金のこされているとの噂があります。


元就の子孫がご住職をつとめるお寺に残る言い伝えでは、その価値は現在の価値で数千億円とも言われています。この噂が本当なら元就はなぜそんなにお金を貯めこんだままにしたのか、気になります。

お金の工面に苦労していただろう若年期

毛利元就は1497年に生まれました。元就が生まれたばかりの頃、父・毛利弘元は安芸の小領主に過ぎませんでした。しかも、早くから両親を亡くしてしまった元就は、分家だったということもあって、周りの大人たちにいいように領地を奪われて、わずか300貫の領地しか回ってきませんでした。


300貫ってどれくらいかというと、年間で金75両(現代の価値では1000万円未満)の収入しかありません。元就だけなら良いですが、そこから家来たちを養っていこうと考えると、、、とても足りる訳ありません。江戸時代なら13人ほどの家来しか持たない下位の旗本といったところで、これだけでも十分な貧乏なのにさらにそれすらも後見役だった重臣・井上元盛にかすめ取られてしまい、相当悲惨な生活を送っていたと思います。


その後、本家の兄・甥が次々と亡くなったことで、1523年に元就が家督を継ぐことになり、吉田郡山城主となりました。しかし、その時の収入は年3000貫。当初の10倍ではあっても、これでもまだ高級旗本クラスでした。


そのうえ、安芸は山陰地方の大大名・尼子経久と周防・長門である大内義隆との勢力争いに巻き込まれ、毛利家中も大混乱。年貢がすべて順調に入ってくるはずもなく、経久に命じられてあちらこちらと転戦する費用もかさみ、苦しい時代は続きました。

毛利家の転機となった大内家への寝返り

この状況に変化が生じるのは、元就が尼子家と断交して大内家に寝返った1525年のことでした。元就は安芸と石見に領地を持つ高橋氏を滅ぼし、宍戸氏・熊谷氏ら有力国衆と結んで一躍安芸の大勢力へと成長していきました。


1533年には義隆を通じて京の朝廷も銭4000疋を献金して従五位下右馬頭の位官を得ました。これは勢力拡大に伴い裏付けとなる権威が必要となったからで、銭4000疋というと40貫、300万円前後の計算でした。この頃には臨時支出もできるようになっていたのでしょう。


元就はこの後1540年に吉田郡山城でで経久の孫・晴久の大軍を相手に籠城戦で大勝利を収め、2年後から始まる晴久の本拠・出雲月山富田城攻めでは逆に大敗北喫するなど生き残りをかけた厳しい戦いを繰り返すことになりました。そんな中で元就はこんな激しい言葉を発していました。


「今後は大内家から義務を怠っていると責められることがあっても一切取り合わない」


義隆からの度重なる負担に悲鳴をあげたのでした。どうも、毛利家の台所は相変わらず火の車だったらしい。その証拠に、1550年以前、毛利家の重臣志道広良は元就はこう進言している。


「何度も申し上げておりますが、井上元景が代官を務める土地の未納年貢100俵を取り立てて福永豊後守からの借米の返済に充てれば、年内にまた福永から300、400、500俵と借りることができるしょう。」


井上元景というのは因縁深い元盛の弟のなのですが、彼が滞納している年貢で福永からの借米を返し、今年の年貢を担保に福永から新たに前借りしようという算段でした。借金を返してさらに多く借金しようとは、まさに自転車操業、雪だるま式に借金が増えていく悪循環ではありませんか。


これでは元就が悲鳴をあげるのも無理もありません。


そしてその問題は、それだけではなかった。”何度も”と広良が言うように、元景が年貢を納めないのはどうも常態化していたようでした。


井上一族は当主の元兼が郡山城下の三日市で商人から通行税を取る権利を持つなど経済特権を独占し、その財力を背景に依然として主君の元就を軽んじていたのでした。


ここに至って元就は決意を固める。「尼子といい大内といい、大勢力に従っていても毛利家は搾取されるだけだ。独立するのが最もよい。それには我が家中を固めることが先決!」


こうして彼はまず1550年7月13日、井上元兼一族をことごとく誅滅してしまう。その罪状は、「税金を納めなかった」「他人の領地を横領しました」というものでした。元盛や元景の行状を見ると、これは元就のいつわらざる本心でしょう。


これで元就は領内の権利を握ることに成功。また、この直後に元就は家臣団から忠誠を誓う「起請文」をとり、家中の結束も固まりました。

中国地方の覇王も貧乏癖が消えない

1551年、大内家の重臣陶晴賢が義隆に反旗をひるがえし、義隆は自害。元就はあらかじめ晴賢と示し合わせていたのだが、のちに晴賢に敵対して1555年の厳島の戦いで陶軍を撃破しました。


周防・長門も手に入れた元就は、1566年に尼子義久月山富田城も開城降伏させ、ついに中国地方8ヵ国、200万石と言われる大領土を獲得することとなる。


最初の300貫から比べると、実に3333倍。脅威の上昇率です。自転車操業で戦を続けていたのがようやく身を結び、中小企業に過ぎなかった毛利家が大企業へと上り詰めた瞬間でした。


とはいっても、元就は変わらず懐の中身ばかり心配していました。1562年の夏、ある経費を捻出しなければならなくなった元就は「秋の銭段で払おうと思ったら、すでに3分の1は前借りを分の返済に回っており、残りの3分の2も来年の春の段銭え返さなければならない。仕方ないから、その残りで払う。」と嘆いていました。


段銭というのは田一反あたりいくらと掛ける税金なのだが、春秋の年2回徴収するうち、大部分が前借りに回されていたというのだから、井上一族誅滅と同じように不如意なことに大差ありません。


では、彼はどんな人間から金を借りていたのでしょう。先に紹介した福永豊後守というのはその名乗りからして毛利家に金を融通することによって家臣格に引き立てられた金持ちなのでしょう。


けれども、もう一人、ちょうどこの頃に元就が孫の輝元と連名で河野徳寿という人物に「倉本等の事、定め置く」と文章を出しています。この倉本というのは年貢米を預かって管理し、運用して利潤を上げる投資家でした。そう、ちょうど江戸時代の札差のような存在でした。


元就はこの文章の中で「先年もお金のことでお願いをし、無理を聞いてもらったことは忘れてはいない」と感謝しているぐらいのだから、毛利家の財政はこの倉本なしでは立ち行かなくなっていたのでしょう。


こうして元就の貧乏癖は、骨身の髄まで染み込んでしまいました。最終的に中国地方8ヵ国の覇王にまで成り上がってしまえば金回りも良くなったはずですが、もともと大名と主従関係にある国衆から成り上がったために家臣たちの多くは後から付き従った元同格。「さのみよくは存じ候わぬ者のみあるべく候」(毛利家のことをそれほど良く思っていない者ばかりだ)と元就も案じたほどでした。


血の滲む苦労の末、築いた大組織は潰したくないし、艱難辛苦のあげく貯めこんだお金は使いたくないもの。


そのうえに元就本人も「家屋敷や遊興、女性に浪費するのは先祖への大不幸である。」と諭すほどの節約家ぶり。これではお金が死蔵されたままになり、埋蔵金説を生むのも無理はないのでしょうか。

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