戦国時代最弱?小田氏治の城奪還人生

信長とは対照的な戦国時代のもう一人の“おだ”

戦国武将で“おだ”と言えば、織田信長と答える人が99%以上と思うところ、今日はぜひとも紹介したい“おだ”と呼ばれる戦国武将が一人います。

常陸国小田城(つくば市)の城主、小田氏治です。以前NHK歴史秘話ヒストリア』でも“戦国最弱”としてフィーチャーされた武将です。

この小田氏治の最弱たる由縁は、18歳で家督を継いだ後、事実上の初陣に敗れて以降、60歳で最後の合戦に臨むまで、実に200回以上の敗戦を味わっていること。特に、居城の小田城を落とされること、9回に及ぶわけでこれほど城を追い出された武将も早々いないでしょう。

その戦国最弱の名前には味ない武将の生涯を追ってみましょう。

まずそもそも小田一族は鎌倉時代から続く名門。生まれたときの家柄いえば、信長を圧倒しているわけです。筑波山の南、宝篋山の麓に広がる小田城を拠点に土浦城などの支城群を配し、常陸西南部を治めました。

しかし、氏治の時代、北常陸から虎視眈々と南進を狙う佐竹氏、南から関東制覇を企む小田原の北条氏の圧力を受けるようになります。

こうして戦国の争いがピークを迎える時代に氏治は家督を継ぎました。

まず、弘治2年4月5日、領地が近接する下総国の結城政勝が小田原の北条氏康と結び、北条氏に与する関東の諸氏らを伴って、小田寮に攻め入り、小田領の西に位置する海老島城(筑西市)に迫りました。

周囲に低湿地帯が広がる要害の城ですから、救援に駆け付けた氏治は油断し、泥だらけになって攻めかかる北条、結城勢に配送を余儀なくされ、翌日には小田城も捨てて支城の土浦城に逃れるしかありませんでした。

こうして、戦国最弱と言われる生涯の幕が開きました。

ただし、「八月二十四日古地(小田城のこと)へ立て籠り移られ候」と史料にあるから、4カ月ほどで小田城を奪い返し、前述した通り、のちに9回的に渡したものの、奪回に8回成功。それだけ先祖代々の本貫地に対する思いが強かったのでしょうね。


ところで、北条勢力の圧力を受ける氏治をはじめとする常陸の諸将は、越後の長尾景虎(のちの上杉謙信)に期待しました。

謙信は北条の侵攻に苦しむ関東諸将の窮地を救うべく、1560年9月、三国峠を越えて関東へ出陣。上野国厠橋城で越年した謙信は、関東諸将を率いて小田原城を包囲します。

しかし、天下第一の堅城であった小田原城は容易に落ちず、謙信は上杉憲政から関東管領職と上杉の名跡を与えられ、越後に帰国していきました。

肩透かしを食らったのは、謙信に与した関東諸将です。氏治はやむなく北条氏康に近づき、1862年北条と同盟を結びました。むろん、謙信は氏治の裏切りに激怒します。

1864年謙信は上杉方の佐竹勢とともに小田城を攻め取りました。しかし、謙信は氏治を懲らしめただけで兵を退き、小田城は氏治の元へ帰ってきました。

その後、佐竹義昭に攻められて落城するも、氏治はその死去の混乱に乗じ、小田原城を奪い返しています。そこで、謙信は1566年、義昭に代わって家督を継いだ佐竹義重とともに、またも小田城へ攻め寄せ、このときも氏治は城を捨てて、支城へのがれています。

謙信が小田領内で捕虜にした者らの人身売買を認めたのはこの時です。

小田城を九回奪われて奪還に八回成功した事実

氏治は億都市、謙信のライバル武田信玄に援助を乞い、さらに翌年の1568年、謙信に降りました。謙信は氏治が裏切りの常習者であるという理由で許そうとしませんでしたが、氏治は小田城の城壁を壊れたままにしておくと誓い、ようやく許されたと言います。

このあたり、小田城を奪回するため、涙ぐましいまでの努力を続けています。

なおも、佐竹勢を相手に落城と奪還を繰り返し、例えば、1572年の大晦日から翌年の正月にかけては、小田城で恒例の連歌会を催しているところを佐竹家に襲われて落城しています。

その後、小田勢はジリ貧になっていきますが、氏治が60歳になった1590年正月、支城の藤沢城にいた彼は最後の奪回戦に挑みます。

しかし、小田城は落ちず、”九転び八起き”にはなりませんでした。

この年の4月、ほぼ天下を手中に収めていた豊臣秀吉小田原城を包囲し、秀吉は関東や奥羽の諸将に小田原参陣を促しました。

小田城を押さえる佐竹義重は秀吉に臣従したが、北条方であった氏治は秀吉の軍門には降りませんでした。

当然、小田原城開城後、小田の領地は召し上げられ、氏治はかつてのライバルであった結城氏の家督を継いだ秀康(徳川家康の次男)の客分となり、関ケ原の翌年に当たる1601年、結城秀康の領国である越前で亡くなりました。

こうして氏治は鎌倉時代から続く名門の最後の城主となりました。

負け続けた果てに先祖代々の城の奪回もならず、家そのものがなくなってしまったのですから、まさに戦国最弱と言えそうですが、彼はひ弱な武将でもなければ、臆病な武将でもありません。

むしろ歴史は彼に「強み数奇」の大将との評価を下しました。強すぎたというのですが、これはある意味、皮肉な表現。

1559年小田城を奪われていた氏治はライバル・結城政勝が死去した機に乗じ、結城城へ攻めかかり、多くの家臣を討ち死にさせたのみならず、結城勢に小田原領の多くを奪われました。「関東古戦録」は、これを「無用の戦」だったと酷評しています。

だからといって、彼は暴君というわけでもありません。9回も小田城を奪われながら、8回も奪回に成功しているからです。

家臣や領民はの協力がないと、こうはいかず、結果、後世の歴史家は彼を「家臣や領民に愛された城主」と評価します。

強いのか、弱いのか、暴君なのか、愛すべき武将なのか。その判断に悩む戦国随一の謎めいた武将であるのは言うまでもありませんね。

ポンコツ武将列伝

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あの方を斬ったの…それがしです

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