聖徳太子、地味な兄が後の権力者によって聖人化


厩戸皇子が建立した法隆寺

歴史の教科書から消えた聖徳太子

『和をもって貴しとなす』

有名な十七条憲法の第一条には、そう書かれています。

和を重んじる日本人の精神が凝縮された一言で、多くの日本人は推古天皇12年、聖徳太子が朝廷の官僚や豪族らに守るべき道徳を示すために制定したものと理解しているはずです。

また、聖徳太子は十七条憲法を制定した3年後に、小野妹子使節とする有名な遣隋使を送り、その国書に『日出づる処(日本)の天子、書をを日没する処(中国)の天子にいたす』と謳い、当時の中国の皇帝に対等外交を求めたとして高く評価されてきました。

さらに、推古天皇元年、聖徳太子推古天皇摂政となる、と歴史の教科書に書かれていたと記憶している人も多いと思います。

このように聖徳太子というと推古天皇摂政として叔母の女帝を支えた聡明な皇太子、かつ、隋に使者を送り、十七条憲法を制定して仏教を世に広めた偉大な人物というイメージではないでしょうか?

ところが、十七条憲法聖徳太子によって定められたと書かれた高校の教科書は今やほとんどないことをご存知でしょうか?遣隋使についても、『日出づる処は徐は詛、日没する処は西』という方角を示す表現に過ぎず、対等外交を意味するものではないと理解されるようになってきています。

確かに、『日本書紀』には聖徳太子推古天皇の皇太子となり、政治を「「摂政らしむ」と書かれていますが、ここでいう摂政は固有の役職名ではなく、天皇から政治を委ねられているという一般的な意味で用いられていると解釈されるようになりました。

こうして今の日本史からは聖徳太子の業績が一つずつ消去されつつあり、それどころか、高校の教科書から名前をそのものが消去されています。

むろん、聖徳太子は詛お腹ら分かる通り、明らかに後付けの尊称。平安時代にその業績を称え、聖なる徳を持つ皇太子として、その名が普及し、よって、教科書には尊称ではなく、厩戸皇子という実名で記載されるところまでは分かります。

しかし、現在では、聖徳太子が実在したか?とその存在さえ疑われています。いわゆる聖徳太子虚構論です。

虚構論を要約すると、こうなる。厩戸皇子という皇族が皇太子となって推古天皇の時代の政治を司り、多くの業績を残したとされてきた。長い間、その厩戸皇子こそが聖徳太子とされ、彼に対する仏教的な信仰さえ生まれているが、架空の人物である。

聖徳太子は本当に虚構な人物だったのでしょうか?まず、虚構論の根拠を見ていこう。聖徳太子について書かれ史料は少なくはない者の、比較的早い時代に成立した『上之宮聖徳法王帝説』(法隆寺の僧がまとめた太子の伝記)にしても平安時代の初め。

厩戸皇子の時代よりも200年以上後の話で、時代が離れるほど当然脚色が施されています。そうやって消去していくと、厩戸皇子の時代に近い史料は2つだけしか残りません。

そのうちの一つは聖徳太子開創と伝わる法隆寺に残る銘文などです。代表する銘文は、法隆寺金堂に安置される薬師像光背刻まれたものです。意訳すると、用明天皇が病気になり、太子らを召して病気平癒のために薬師寺像の建立を請願しましたが、亡くなってしまきました。


そこで推古天皇と太子が丁卯の年、607年に完成したとあります。この年に聖徳太子が遣隋使を派遣したとされ、同時代の史料として注目されていました。

問題はこの銘文に『天皇』という号が使われていたことです。意訳文では便宜的に天皇という号を使いましたが、本来ならば当時は用明大王、推古大王と書かれているべきなのです。


というのも、天皇の号は持統三年(639年)に編纂された飛鳥浄御原令で正式に採用されたというのが歴史の定説だからです。


この他にも、同じく金堂の釈迦像光背に『法王』という文字があることも不審だとして、聖徳太子虚構論は、銘文が厩戸皇子時代の100年近く後のものだとします。

最初に注目されたのは厩戸皇子の弟"来目皇子"

そうなると、残った頼るべき史料は『日本書紀』だけ。

しかし、虚構論を提起して波紋を呼んだ歴史学者の大山誠一氏によると、『日本書紀』に計22ヶ所ある厩戸皇子の記載内容を検証した結果、歴史的事実と確認できるのは『厩戸の系譜・年齢・斑鳩宮(今の法隆寺東院)』があります。

つまり、用明天皇の皇子に厩戸という名の人物はいましたが、斑鳩宮の造営と法隆寺の建立を除くと、ほとんど歴史的事実に関係していないというのです。


当時、朝廷には蘇我馬子という大王がいて、少し後の時代には中大兄皇子藤原鎌足らが古代史を彩っていますが、彼らと比べると、確かに虚構論でいう厩戸皇子の姿は地味な印象です。

その地味な厩戸皇子聖徳太子というスターに脱皮するのは、720年に『日本書紀』が編纂されたとき。

冨士原不比等らが中国の皇帝に負けないような、つまり、天の寵愛を受けるような聖人を天皇家に取り入れるべく、厩戸皇子をモデルに聖徳太子を誕生させたと言われています。


それにしても、なぜ聖徳太子のモデルが地味な厩戸皇子だったのでしょうか?その理由についても考察してみます。


まず、日本書紀編纂時に東征伝説の大スター、ヤマトタケルノミコトのモデルとして、厩戸皇子の弟である来目皇子が注目されました。


その理由は、彼が新羅を討つ将軍に任じられており、まず来目皇子に目が止まり、次いで、その兄の厩戸皇子に注目。地味で目立たないので、新しいイメージを付けやすかったのが厩戸皇子だったのです。

聖徳太子: 実像と伝説の間

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