ナポレオンが率いたフランス軍グラン・ダメルが強すぎた理由(3) ユース・バルジ現象とナポレオンのカリスマ性の正体


革命時期のユ ース ・バルジ現象

ナポレオン軍がなぜ強かったのか、人口統計学的にみて、30歳以下の若年人口の急増したことにあるという説があります。

特に、革命や暴動が起こるなど、大きな社会変動はすべてこれ人口増加圧力 、とりわけ血気盛んな三十歳以下の若年人口の急激な増大して、彼らの勢いを止めることができなくなって起こってしまいます。これをユ ース ・バルジ現象と呼びます。


ルイ16世の失脚し、ナポレオンが頭角を現した大革命期のフランスでは、顕著にこのユ ース ・バルジ現象が確認できます。


おまけに 、18世紀後半のユ ース ・バルジ世代は識字率の急上昇した世代であって、読み書きを知らない父親世代とは、コミュニケーションという点からも断絶を示していた 。

さらに、幣経済の浸透と都市化という要因が加わるから 、人口移動は容易になり 、都市がユ ース ・バルジ世代によって膨れ上がるという社会状況が一変した要素は数え切れません。


しかも 、これらの都市新住民の多くは低賃金労働者や失業者となって社会の底辺に組み込まれ 、不平不満を溜め込んでいきました。


これが大革命の間接的原因ですが、この同じ原因がフランス陸軍の内部でも観察されていた と言われています。というのも 、ユ ース ・バルジ現象のため 、職を求めて陸軍に入隊する兵士 ・下士官が増えたのですが 、一七八一年の陸軍省令により 、将校となるには貴族でなければならないとされ 、下士官たちは将校へ昇進する道を閉ざされてまっていました。


その一方で 、先述のような文書による命令下達の徹底で下士官にも読み書き能力が求められるようになった結果 、革命が軍隊内にも伝わるわけで、革命派下士官が誕生し 、やがて彼らが多数派となるに及んで 、貴族出身の将校たちは亡命の道を歩まざるをえなくなったのでした。


では 、貴族出身将校の脱落で 、フランス陸軍が弱体化したかといえば 、そうはなりませんでした 。空隙はベテランの職業軍人である下士官たちが埋めたが 、一七九二年に始まった祖国防衛戦争で若い志願兵 (義勇兵 )や徴集兵が入隊してくると 、これら下士官上がり将校たちは彼らに手際よく旧陸軍のマニュアルを教え 、短期間で一人前の兵士に仕立てたからである 。


一言でいうと 、ここでも七年戦争以後に陸軍に導入された改革が実を結び 、王国陸軍はただちに共和国陸軍へと転換されたのでした。


革命の情熱とナショナリズムに燃える兵士が強かったのではなく 、アンシャン ・レジ ームに準備された兵隊づくりシステムがうまく作動して 、革命の軍隊を速成することに成功したのでした。


『公平に見るならば 、この合体した新軍隊において優勢であったのは旧正規軍だった。旧正規軍の方が義勇軍より兵員の数が多かったせいではなく 、実際にこの新軍隊の新兵たちが実戦経験を経てみると 、旧軍隊の体験知が現場において実用的であったのに対し 、革命の平等主義的理想が実際の役にたつ形で表現される機会はほとんどなかったからである 』というように 、近年の歴史研究はわれわれが抱いている 「ナポレオンの夢 」「革命の夢」を壊す方向にしか向かっていません。

ナポレオンが持つ圧倒的なカリスマ性の正体

それじゃあ、ナポレオンが存在しなくても 、他の軍事的才能 、たとえばカルノ ー程度の戦略思考があれば 、あの大帝国を築けたかといえば 、決してそんなことはないのです。


ナポレオンはやはり他に置き換えのきかない大英雄であることに変わりありません 。


では 、いったいナポレオンのどこが卓越していたのだろうか ?多くの伝記作者が指摘しているのは 、ナポレオンの圧倒的カリスマ性です 。


ナポレオンは陰では 「チビの伍長 (プチ ・カポラル ) 」とあだ名されるほど小柄で冴えない外見でしたが 、ひとたび口を開くと 、居並ぶ歴戦の猛将たちが猛獣使いを前にしたライオンのようにひれ伏したと言われています。


とにかく 、物凄いオ ーラが放たれていたと想像ふるわけですが、そのオ ーラの正体とはなんだったんでしょうね ?


一説には、ナポレオンの本名がイタリア風のナポレオ ーネ ・ブオナパルテだったことからも明らかなように 、旧ジェノヴァコルシカ島の出身だったことに挙げられるそうです。


ナポレオンがコルシカ出身であることとそのオ ーラを生み出すことになんの因果関係があるのでしょうか?


それは ナポレオンの登場からほぼ半世紀後に日本に現れた 「強烈オ ーラの人 」西郷隆盛と重ね合わせるとわかりやすいかもしれない 。


西郷隆盛に強いオ ーラを同時代人が感じたのは 『古層の意識』が刺激されたからと言われています。つまり、西郷の風貌に自分たちのルーツ:弥生系の渡来人に抑圧されて消えたはずの縄文系の原日本人の蘇りのようなものを見てとったわけです。いわば幕末の志士たちは集団的無意識の核のような部分を強く刺激されたのでした。


ナポレオンの中にも、フランス陸軍を刺激するこの 「古層」が確実に存在していたのでした。



コルシカ島の位置 出展:Wikipedia

それはヨ ーロッパの超辺境であるコルシカに奇跡的に保存されていた 「古代ロ ーマ人 」という 「古層 」にほかなりません。いわば 、ナポレオンは 、西郷隆盛が 「原日本人 」であったのと同じように 「原ロ ーマ人 」であったのでした。


この 「コルシカ人 =原ロ ーマ人 」説は 、コルシカに旅してみればおおいに納得がいきます。コルシカ人はみんなナポレオンの顔に似ています。そして 、彫りの深いコルシカ人のイメ ージを辿っていくと 、それは古代ロ ーマの神々や英雄たちの彫像に行き着く わけです。


恐らく古代ロ ーマ人とコルシカ人を D N Aで調べればその相同性はさらに明らかになるだろう 。これは人類学や歴史言語学 、さらには柳田民俗学のいう 「同心円の外側により古いものが残る 」という定理にも一致しているわけです。

また 、ヨ ーロッパ人がナポレオンの中に 「原ロ ーマ人 」を見たという説は近年の家族人類学からも説明できる 。

コルシカの家族類型

コルシカの家族類型は 、あまり記録が残っていないので正確なことは言えませんが 、ナポレオン一族のパターンから類推する限りでは外婚制共同体家族です。


これは 、親子関係が権威的(複数の成人男子と親が同居)で兄弟間は平等(均等遺産相続)のタイプで嫁を一族の外から娶ることから「外婚制 」という限定が加わります。ちなみに嫁を一族の内部から娶るタイプは内婚制共同体家族と呼ばれ、イスラム圏や南インドにその風習があります。

外婚制共同体家族はロシア、東欧、中国に広く見られるわけですが、西ヨ ーロッパではフランス中央山塊、地中海沿岸部、イタリア ・トスカ ーナ地方などにわずかに存在するだけの少数派の家族類型でした。


しかし 、古代においてはロ ーマ帝国がこの家族類型だったため、西・南ヨ ーロッパに広く分布していたのでした 。


コルシカは大陸の影響を受けにくい離島なので 、ヨーロッパ中心部でこの家族類型が消えた後も奇跡的に長く保存されたのかもしれません。


ちなみに、フランスではどうかというと、パリ盆地が平等主義核家族(成人した男子と親は別居。ゆえに親子関係は自由主義的。兄弟関係は均等相続のため平等)で、北フランスと南フランスが直系家族 (成人した長男と親は同居 。ゆえに親子関係は権威主義的。兄弟関係は長子相続のため不平等。ちなみにドイツ、スウェーデン、日本、韓国がこの類型 )というように 、ローマ型の外婚制共同体家族は少数派でした。

カエサルの生まれ変わりと称したナポレオンとローマ帝国の復興を見たフランス人

しかし、どうしてナポレオンがコルシカの外婚制共同体家族出身だったことがあのヨーロッパ大征服を可能にしたのでしょうか?


家族類型は集団的無意識に投影され、集団が作り出す擬制にそのまま持ち込まれるからと考えます。

つまり、平等主義核家族は共和政を、直系家族は古代には王政を (近代においてはファシズム社会民主主義を )生むことが多いのに対し、外婚制共同体家族は帝国原理 (近代では共産主義 )を生みます。


ナポレオンは、共和政原理と王政原理しかない十八世紀末の時代に突然現れて、古代ロ ーマ人の現代的蘇りとして、帝国原理を強制したのでした。


言い換えるとナポレオンは蕃地ガリアを征服したカエサルのように、フランス人という 「蛮族 」を、文明人 「ロ ーマ人 」として簡単に屈服させ、当然のように皇帝となったわけです。

事実、ナポレオンは自らをカエサルの生まれ変わりと固く信じ、エジプト征服を試みたのを皮切りに、フランス統一後は風俗習慣・建築・美術を古代ロ ーマ様式 (これが帝政古典主義 )に統一したし、ヨ ーロッパ征服後はローマ帝国の再興を目論んだのでした。


その結果、本来は、平等主義核家族の共和政か、あるいは直系家族の王政に慣れていたはずのフランス人は、あたかも「見たことを忘れてしまっていた夢」の中に再び投げこまれたように突如 「ロ ーマ人」となりました。


時代が変換期にあるときに、人々は、民族の「古層」から出現する超人にカリスマを見てしまうことが少なくありません。ヒトラ ー然り 、スターリン然り、毛沢東然り。果たして、二十一世紀の「古層」は誰によって体現されるんでしょうかね?