蜂須賀小六は本当に盗賊だったのか?

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※右下の少年が蜂須賀小六に楯突く藤吉郎(後の豊臣秀吉)

先祖が有名な大盗賊だった日本の文部大臣

第14大阿波の国徳島藩蜂須賀茂韶は、廃藩置県後、イギリスのオックスフォード大学に留学し、その後、明治政府のフランス公使を務め、帰国後は東京府知事となり、明治29年には文部大臣に就任しました。

大名出身者が閣僚にまで上り詰めたのは、非常にレアなケースです。ただそんな有能な智明ですが、先祖の出自には大きなコンプレックスを抱いていました。

蜂須賀とゆう名字を聞いて、戦国時代好きにはピンときたかもしれません。蜂須賀茂韶は、あの豊臣秀吉が信長よりも前に仕えていた蜂須賀小六の子孫に当たります。


蜂須賀小六は、その後秀吉に仕えて天下統一まで秀吉を支え続けますが、小六は盗賊をしていた時期がありました。

かつて、明治天皇の住まいに茂韶が招かれたとき、茂韶は出座を待つ間、卓上に置いてあった煙草を失敬した。すると、ちょうどこれを目にした天皇が茂韶に向かって『先祖は争えんな』って茶化したという話が残っています。

このように小六が盗賊だったことが明治天皇が知っているほど有名な話になっていたのでした。まずは、その逸話の詳細を『絵本太閤記』から紹介しましょう。

豊臣秀吉が藤吉郎と名乗っていた少年時代、継父と折り合いが合わなくて家を飛び出しましたが、仕事を転々とした結果、物乞いに転落してしまいます。そんな十二歳の秀吉が矢作川にかかる橋で寝ていると、頭を蹴られたのです。

頭を蹴った男こそが、蜂須賀小六でした。飛び起きた秀吉は過ぎ去ろうとするごっつい野武士の集団を見ました。普通なら怖気付くところを、秀吉は自分を蹴った親玉らしい男・小六に向かって、『無礼ではないか、俺が子供だからといって、お前のために辱めを受けるいわれはない。俺の前に来て謝罪してから通行しろ』と言い放ったのでした。

足を止めた小六が秀吉に近づくと、なんと子供ではないか!!いい度胸だと感服した小六は、非礼を詫びた後『お前はどこの国のいかなる者の子だ。幼き身にして不敵のひとこと、感じるに余り。我に従い奉公すれば、厚い待遇をしてやる』と誘ったのでした。秀吉は喜び、以後、小六に仕えることになりました。

『真書太閤記』にも同様の逸話が出てきますが、矢作橋で昼寝をしている秀吉に気づかず、小六が足で踏みつけたことになっています。この『絵本太閤記』と『真書太閤記』では、小六を次のように紹介しています。


小六は近国の野武士を語らい東国街道に徘徊し落ち武者の武具を剥奪、人家に押し入り、財宝を奪ふ、其手下に属する者一千余人勢ひ近国に震ひたる」

「小六は敗軍の様子を見ては通行先に待ち伏せ、甲冑武具を奪ひ」、「鉄壁の堅をも破り、金銀財宝を奪ひ取て思ふ儘に栄耀をなす」このように、敗兵からの分捕りや押し入り強盗が炬六の仕事だったと言われています。

秀吉の少年時代を面白可笑しく書くための犠牲

ただ、小六=盗賊説は江戸時代中期に記されたこの二書に初めて詳細に出てくる話であって、それ以前の小瀬甫庵太閤記』などには一切登場しないし、当時の手紙や日記など一級史料にも、それを示す証拠は見いだせないのです。

つまり、秀吉の少年時代の話を面白おかしくするため、こうした江戸時代後期の軍記物がか勝手に矢作川の橋上での秀吉と小六の出会いや小六盗賊説をでっち上げたのでしょうね。

そもそも矢作川に橋が架けられたのは1601年秀吉が死んだあとなのです。橋自体が存在していないのだから、このエピソードが本当であるはずもありません。

けれどこの話は、幕末に武士や知識人の間では大人気となった頼山陽の『日本外史』に採録され、あたかも史実のように広まってしまったのでした。明治時代になると、この逸話は秀吉の出世話の名場面として、児童書にも乗るようになりました。そんなことで「蜂須賀」
とか「阿波」といった言葉を聞くと、日本人はみんな反射的に「小六⇒盗賊」という連想するようになりました。

これに一番つらい思いをしていたであろう蜂須賀家ですが、徳島県人も腹正しい思いを持っていたに違いありません。その一人で、東京帝国大学の喜多貞吉もあなたの故郷はと聞かれたとおき、「阿波の徳島です」と答えると、「あの矢作の橋の蜂須賀小六のお国ですか」とやってくる「阿波の国人たるもの、豈に怖れ入らざるを得んやだ」と怒りをぶちまけています。


大正13年、大阪にあった小六の墓所が修復された際、それを記念して在阪徳島県人会によって発行された小冊子が蜂須賀正勝顕号ですが、それも小六=盗賊のイメージを払拭するためであり、文中には「戦国時代ゆえ。どんな武将でも剥ぎ取りや窃盗行為は行うものだ」と小六を弁護しています。


また、蜂須賀茂韶は、歴史学者に頼んで汚名の返上をはらしてもらおうと考え、有名な歴史家・渡辺世祐に蜂須賀小六の伝記を書いてもらっています。現在では、蜂須賀氏は多数の部下を抱え水運に携わる尾張の国人であることがほぼ判明しています。


ところが1980年代、矢作橋にはこのときの場面が描かれた石像が配置されてしまい、これからも小六=盗賊説は後世に伝わってしまう気配です。蜂須賀家の人に、少しだけ同情を感じてしまう次第ですね。