ナポレオンが率いたフランス軍グラン・ダメルが強すぎた理由(1)

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七年戦争の大敗からフランス陸軍の大改革

ナポレオンが率いるフランス大陸軍グラン・ダルメはどうしてあんなに強かったんやろうか、あるいはナポレオン帝国があんなに広大なものになったんかっていうのは、実は謎が多い。まだまだ謎が多いってことは、歴史家の興味を刺激し続けており、様々な仮説が披露されてるわけです。

有力とされている説は2つ。

1つは、ナポレオンが軍事的天才であったことを強調する『帝政史観的』なもので、ナポレオンが編み出したと言われる砲兵中心の中央突破戦術、戦力集中による各個撃破戦術が戦場の勝利を決定付けたとする説。軍事オタクな人はこれを支持することが多いですね。


もう1つは、フランス大陸軍を構成した兵士の質に注目する『共和国史観』なもので、志願兵と徴集兵は国民国家の申し子で愛国心に燃えていたため、ナショナリズムの点で他国を圧倒していたとする説。

もちろんどちらも必要な要素で、折衷的な説がほとんどで、ナポレオン戦役直近の分析者であるクラウゼウィッツはナポレオンの軍事的な才が大陸軍に漲るナショナリズムをうまく利用したと説を強調している。


どの説も立場は違えど、いずれも大革命による断絶を強調している点では一致していますね。


これに対し、近年、優勢になりつつあるのが、アンシャン・レジームとの『連続性』を重視する説です。


例えば、ウィリアム・H・マクニールは、『戦争の世界史』でナポレオン軍の勝利はフランスが七年戦争プロイセンに敗れたことに遠因があるとして次のように説明しています。


すなわち、プロイセンに大敗した原因を分析したフランス陸軍は、フランス革命勃発までの26年間の間にピエール・ブルーセ将軍の指導のもと構造的な改革を成し遂げており、まったく別の軍隊になっていたとして、その分析と対策を大きく四つに分けています。

1.指揮・命令・軍政系統

従来、戦場を見下ろす高地から将軍が望遠鏡で敵味方の配置を観察しながら、副官たちを使って命令を伝達したり、戦況報告を受けていた。しかし、会場が、兵員5万人を超える規模となると、全体の把握が困難になり、戦況が掴めなくなるのも簡単に想像がつきますね。当然、伝令との口頭コミュニケーションも戦場の轟音に妨げられていたに違いありません。


この反省から生まれたのが参謀本部システムで、特殊な訓練を受けた参謀たちによって下達される方法が取られました。そのため、フランス陸軍では、1750年から参謀本部での使用に耐えうるような精確な地図が作成されたそうですが、このとき大きな貢献をしたのが1777年にフランス軍工兵中尉ムニエが提案した等高線です。これにより、戦場での高低差が精確に把握できるようになり、参謀本部の作戦もより緻密なものになったからです。


同時に、伝令将校に対しても、口頭ではなく必ず書面を用いて命令を伝えることを義務付けられ、地図読解と命令伝達システムを訓練するための参謀教育も設けられました。ナポレオンの伝令書が古文書として大量に残っているのはこのためです。


しかし、指揮・命令・軍政系統の改革の中で最大のものは「師団」の発明でした。師団とは、歩兵・騎兵・砲兵の主力「三兵」に工兵、衛生兵、通信兵などの支援要員などを加えた総合的な戦闘ユニットで、上限は1万2千人とされ、全体を師団長の将軍が指揮しました。


この師団の発明が画期的だったのは、単一師団でも連合師団でも、敵軍と遭遇次第ただちに戦闘が開始できるように工夫されていることで、予定の戦場に向かって各師団が別のルートで進撃する場合にも、途中で戦端を開くことが可能になったのでした。

「地図の作成、特殊技能を身に付けた参謀将校、事前に用意された書面による伝令、師団単位の編成原理、これら4つの要素を備えたフランス陸軍は、すでに革命前夜の1788年時点で、野戦軍の実効的規模についてのそれまでの上限を飛び越えるための十分な準備ができていたのでした。


そうでなかったならば、1793年の国民総動員は空振りに終わったでしょう。すなわち、ただ数で勝るばかりで戦場での実効的な統制を欠いていたならば、革命軍は実際に勝ち取ったような勝利を収めることは不可能だったでしょう。

2.戦術マニュアルの柔軟化

主としてドイツが戦場となった七年戦争では、フリードリッヒ大王の好む横隊戦術が大きな戦果を挙げたため、ヨーロッパでは以後、この戦いが主流となりました。


しかし、実証主義が取り入れられたフランス陸軍では、野外演習テストの結果、横隊戦術は三圃農業のための開放耕地が多いドイツ領内でこそ威力を発揮するものの、耕地の囲い込みが行われたフランスでは不適切と判定されました。


その結果、横隊のほか縦隊、敵兵のいずれかを状況に応じて採用するフレキシブビリティーを持たせた戦術が採用されたのでした。これがナポレオン軍の快進撃を支えたこととなります。

3.戦争に不可欠な補給の進化

19世紀までの戦争で最重要課題だったのは、食糧と飼い葉を軍団に遅れずにどうやって運ぶかの問題でした。


しかし、フランスでは1764年以後、ピエール・トレザゲという技師の考案した三層砕石舗装道路が採用され、さらに財務官チュルゴーの改革でチュルゴチーヌという快速乗合馬車が登場したことから、これを運行させるための全国道路網が整備されました。これが補給に大きなプラス材料となったのでした。


ただし、フランス以外の戦場では道路網が整備されていないので、補給は現地調達が主流でしたが、ナポレオン軍の進撃においてはこれがいわば「略奪の許可」となり、将兵の征服意欲を掻き立てることになりました。

4.大砲の改良

18世紀後半のフランス軍改革でナポレオン戦術の最大の恩恵をもたらしたのはなんといっても大砲の改良でしょう。

それまで、大砲はほとんどが青銅で、鋳型の中央に砲腔を決める中子を差し込み、その隙間に溶かした青銅を注ぎ込むという方法で作られていたのでしたが、この中止を精確に円の中心に持ってくるのは容易なことではありませんでした。

そのため、弾道は定まらず、大砲一門一門に癖があり、ベテラン砲兵でも扱いは難しかったと言われています。おまけに、青銅砲は非常に重かったから、野戦砲として戦場に運んでいくには多大な困難が伴いました。18世紀の中頃まで、要塞の攻防用の据え付け型か、あるいは軍艦の艦載砲だけしか大砲が使われなかったのはこのためでした。

この傾向を一変させたのが、スイスの大砲鋳造業者で技師でもあったジャン・マリッツです。

マリッツは中子の差し込みで鋳造するよりも、金属塊を鋳造した後から砲腔をくりぬく大砲穿孔機を発明しましたが、これにより大砲の精度が格段に向上したのでした。


また、砲腔が規格化されているので、「癖」がなく、弾道も一定しました。さらに、砲腔と砲弾の隙間を少なくして、遊びを減らした結果、これまでよりも少ない装薬で、砲弾をより遠くに飛ばすことができるようになったのでした。

そして、装薬が少ないので、砲身を短く細くできるようになりました。つまり、大砲穿孔機の発明により、初めて野戦砲というものが戦場に登場し、砲兵戦術そのものを変えたのでした。