織田信長は、領土の民を豊かにするため寺社の既得損益に抗った

f:id:t-dicek:20180614184126j:plain

信長が寺社を迫害したのは一揆だけが理由ではない

織田信長は、比叡山の焼き討ちなど、寺社を迫害していたともよく言われていますが、必ずしも無差別に迫害していたわけではありません。戦国時代特有の経済的な理由に基づいて、彼ら寺社と戦っています。

簡単に言ってしまえば、信長は寺社の古くからの既得損益を奪うがために寺社と対立を深めました。

戦国時代の寺社は、現代の私たちがイメージしている寺社とはかけ離れているかもしれません。経済的にもさらに軍事的にも強い力が寺社にはありました。それらの権力を振るって、社会に大きな影響を与えていた存在でした。


その経済力は桁外れ。信じられないかもしれませんが、室町時代から戦国時代の前半にかけて、日本の資産の多くは寺社が所有していました。


1508年、室町幕府の菅領の細川高国は、日本中の“大金持ち団体”に対して通貨に関する新しい命令「撰銭令」(えりぜにれい)を発しました。


撰銭令は、「欠けたり焼けたりした粗悪銭の取り扱い」について定めた法令です。この撰銭令をまず8つの大金持ち団体に発布することで、全国の経済に影響を及ぼそうとしたのでした。

この8つの大金持ちというのが当時の日本の経済を牛耳っていたと言えるわけです。いわば戦国時代の8大財閥と言える存在です。


この撰銭令の対象となった大金持ち団体が、大山崎(自由都市)、細川高国、堺(自治都市)、山門使節、青蓮院、興福寺比叡山三塔、大内義興

この8大財閥のうち4つが寺社関連です。しかも4つの寺社関連のうち、山門使節、青蓮院、比叡山三塔は比叡山に縁がある寺社です。つまり、戦国時代の日本の8大財閥のうち3つを比叡山関係だけで占めていました。当時の最大の派閥=比叡山でした。


比叡山だけでなく、他の寺社も裕福なところが多かった。

例えば、イエズス会宣教師のルイス・フロイト根来寺の僧のことを「彼らは裕福であり、絹の着物を着て、剣や短剣には金の飾りをしていた。髪は背の半ばまで伸ばして結んでいた」と書き記しています。


絹の服を着るというのは当時としては、相当なお金持ちしかできませんでした。戦国時代は絹の生産はあまり行われていなかったので、ほとんどが大陸からの輸入品になります。また金の装飾品なども、そうそう入手できるものではありませんでした。


このことからも、当時の根来寺の僧がいかに裕福だったかが分かりますね。仏像とかも金箔が貼られていたものとか今でも残ってますもんね。


同じくイエズス会の宣教師の報告では、日蓮宗の本圀寺について「彼らの収入の多くは、壇家の寄進で、彼らはこれによって贅沢に衣食している」と述べられています。

悪質金融業者だった寺の坊主たち

寺社は、全国規模で展開するいわば悪徳金融業者の側面もありました。そして、その代表格が、上で最大派閥だと書いた比叡山延暦寺でした。


当時の金融業者は「土倉」と呼ばれていましたが、その多くは比叡山が関連していたとも言われています。土倉は今で言うところの質屋。質草をとって金を貸していて、質草を保管するのが土倉であることが多かったので、彼らのことを土倉と呼ぶようになったのです。


比叡山の土倉は、「山門気風の土倉」と言われました。山門とは比叡山のことであり、つまり比叡山は土倉の代名詞となっていたのでした。今で言うならば、三菱Grや、三井Grのような存在。規模からいえばそれ以上の存在だったのかもしれません。


なぜ、比叡山が土倉となったのでしょうか。

その根源は平安時代にあります。


寺社としては日本有数の存在だった比叡山延暦寺は、広大な荘園を持ち、又あらゆる人々から莫大な寄進を受けていました。延暦寺には当然もっとも大事な物資であった米が大量に集められていました。


この米を比叡山にあるに日吉大社が、出挙として高利で貸し出し、秋に利息を付けて返還させたことに端を発しています。


当初は、収穫のない冬を越すための貧民対策として始められていましたが、次第に「利息収入」に重きが置かれるようになっていきました。結局、この利息収入がいつの間にか国家の重要な財源となり、当初の目的とは異なる方向に発展を遂げます。


私的に出挙を行う者も出てきて、それは『私出挙』と呼ばれ、賃金業と同様の業態になっていきました。


この私出挙を、延暦寺日吉大社が始めたのでした。


日吉大社というのは、『古事記』にもその記述が出てきたほどの当時でも歴史のある由緒ある比叡山にある寺社です。延暦寺比叡山に建立された際、日吉大社を守護神としました。そのため、中世から戦国にかけて、日吉大社延暦寺と表裏一体となって隆盛を極めたのでした。


そして、日吉大社は、平安時代から実質的な金貸しである『私出挙』を精力的に行いました。日吉大社の職員である「神人」が諸国に出向き、公卿から物売り女にまで、あらゆる階層に広く私出挙を行っていたと記録が残されています。


そして、中世になり貨幣経済が発展し、日吉大社の『私出挙』は本格的な貸金業である「土倉」へと進化していきました。


このように延暦寺は、「土倉」を積極的に行いました。というより、土倉を広めたのも延暦寺だったとも言えます。延暦寺日吉大社のグループは、土倉業界でも首領的なな存在となり、京都の土倉の8割は、彼らの関連だったとされていました。また、京都だけではなく、全国の土倉にも影響を及ぼしていました。


しかも、この土倉は利息が尋常にないほどのバカ高く設定されていました。当時の普通の利息が年利48~72%だったとも言われています。現代の消費者金融をはるかに凌ぐ超高利貸し。こんなのすぐに破産してしまいます。


そして、借り手が債務不履行になったときの“所業”が、またひどい内容でした。現在の闇金ウシジマ君もさながらの非常な取り立てを行っていました。さらに、彼らは、自分たちが寺社であることを盾にして、「金を返さなければ罰が当たる」と言って脅しました。当時は一向宗も広まり、極楽浄土に行くことを目的に生きてきた農民層を利用しました。


また、彼らは武士も顔負けの武装した集団を囲っており、この武装集団が暴力的に借金を取り立てることも多々ありました。


1370年には、比叡山の債権取り立て人が公家に押し入ることを禁止する令が出されています。つまり、彼らは公家の家にさえ、押し入って暴力的な取り立てを行っていたそうです。


京都周辺には、借金のかたに獲られた零細な田が点在し、それは日吉田と呼ばれていました。そして借金で田畑などを取られ、生活ができなくなった者が続出。まさに負のスパイラル。中世には、借金を棒引きする「徳政令」が度々出されていますが、背景にはこういう比叡山日吉大社の影響がありました。


比叡山に限らず、当時の有力な寺社は、金貸業を営んでいることが当たり前でした。熊野、高野山などの有名なども有名な土倉オーナーでした。明確なデータについては分からないのですが、中世の金貸業のほとんどが結局寺社と結びついていたとされています。

こうした状況で、ほとんどの大名は、寺社が農民を扇動して一揆を起こされるのを恐れて、こういった寺社を活動を暗黙の了解で見逃していたとも予想できます。


織田信長は、楽市楽座の導入など経済的なセンスも備えていた大名であり、貨幣を流通させることで領土を豊かにすることを体現していました。

そんなことを考えると、経済の流れを止めていた寺社は信長が考える富国の道とは正反対にあった存在。信長が、寺社を目の敵にしたのはこうした背景があり、高利貸を行っていた寺社を徹底的に叩いていた理由も納得できますね。

織田信長 不器用すぎた天下人

織田信長 不器用すぎた天下人

信長公弟記 ~織田さんちの八男です~

信長公弟記 ~織田さんちの八男です~