関ヶ原の戦いの敗将・石田三成が経済で支えた秀吉の天下統一

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天文学的な被害を防いだ三成の機転

1582年の本能寺の変織田信長が討たれると、その仇の明智光秀を討った羽柴秀吉が天下統一のレースに名乗りを挙げ、翌年1583年に大坂を本拠に定めて城造りを始めました。言うまでもなく、秀吉の子飼い家臣・石田三成も大坂で秀吉のために働くことになります。

あるとき、大雨が降り続き、大阪城の北西、京橋口の堤防が決壊しそうになりました。当時は、大坂城の北側には淀川と大和川が流れ、ちょうど京橋のあたりでえ合流して天満川となり、大阪湾へ流れていきました。


おかげで大坂城の北の守りは万全ではありましたが、豪雨となれば真っ先に氾濫の危機にさらされました。水量が多いだけに、いったん洪水が発生すると付近一帯の被害は甚大なものになっていたそうです。そうなっては一大事と、秀吉自ら出張って工事を指図しましたが、土嚢が足りず万時休すとなっていました。

「もう手の施しようがないわ」と秀吉が呆然としていた中、冷静に状況を観察していた三成は、大声で部下に指示を下します。

「城内の米蔵から米俵を持ってくるのだ!」と。三成は数千俵の米俵を堤防まで運び込ませ、決壊しかけているところへ土壌代わりに積ませたのでした。

こうして危ういところで堤防は守られ、落ち着いたところで土俵を持ってきた領民には堤防の米俵と交換してやる、と触れまわして瞬く間に堤防の復旧工事を終えたと言われています。

三成のとっさの機転が災害を防いだという逸話ですが、淀川と宇治川のか足支配権を得て葦や萩の刈り取り料を徴収したという三成のこと、川沿いの住民たちをよく把握していて、いざというときも無駄なく彼らを動員できたのでした。


さて、この一件を費用面で考えてみましょう。俵一つには米0.5石入るから、仮に用いられた米俵を4000俵をとすると、2000石に当たります。

記録を見ると、1585年6月20日に洪水被害が発生していることから、この逸話もこの年の出来事だと考えると、当時の米の価格は1石当たり銭1貫文となります。そうなると、仮に現代の米の価格を当てはめるとざっと1億円前後の換算できます。

堤防が決壊してしまい一帯が水没してしまうとどうなるか、江戸時代末期の淀川洪水では、大坂城の東の鴻池新田の年貢収入だけとっても6憶5000万円以上のマイナスが発生したと言われています。家屋が密集する大坂城城下が水害に襲われれば、人的被害を含めてその損害額は現代の価値で何百億にも昇るはずです。それを1億円で未然に防いだ三成のとっさの損得判断は流石と言わざるを得ません。

三成は巨大な堤防で水攻めを試みるも忍城との「資本競争」に敗れた

1590年、秀吉が小田原城の北条氏討伐を決定し20万人以上の大軍を関東に向かわせると、三成は忍城攻めの大将を命じられます。忍城は「浮き城」と異称されたほど低湿地に囲まれ、
大軍の行動が難しい地形にありました。これに対し、三成率いる数万人の豊臣軍は水攻めをかけるわけですが、実はこの作戦、三成の発案ではなく、総大将の秀吉じきじきの命令でした。

「とにかく水攻めをさせる」と秀吉は書状に記しています。彼にしてみれば、かつて備中高松城で大成功を収め、のち紀伊太田城攻めでも戦果を挙げた水攻めを関東でも再現してみせて豊臣家の威信を示したかったのでしょう。


これに対して三成は「諸隊は水攻めの準備にかまけて、積極的に攻撃をかけようとしない」と愚痴る手紙を書いていますから、水攻めが三成の本位ではなかったのかもしれません。武功の面では幼い頃から共に秀吉に仕える加藤清正福島正則に後れをとっている立場としては、勇猛果敢な城攻めで周囲をアッと驚かせたいという気負いもあったのかもしれません。

しかし、そこはさすがに英才と言われる三成。彼は不満をグッとこらえて水攻めの工事を指導しました。いざ方針が定まると、本意は別としてその達成に邁進します、エリート官僚・三成の真骨頂でした。


6月7日から着工した工事で、三成は長さ28km、底辺部は19m以上、高さ3m20cmという規模の堤防を、なんとわずか4~5日という短期間の内に造り上げてみせました。

秀吉が高松城水攻めで築いた堤防が長さ4km、底辺部24m、高さ8mであり、12日間の工期を必要としたことを考えれば、倍以上の体積となる忍城水攻めの堤防工事の手え際の良さは驚異的という他ありません。



工事の竣工とともに三成は堤防の様子を絵図にして秀吉に報告し、秀吉は「現地に出向いて予みずから検分してやろう」と意気盛んに返事をしたためていました。三成は秀吉を満足させたのでした。

では、秀吉を満足させるための経費はいくらぐらいかかったのでしょうか?城方の立場で記録された「成田記」という史料によれば、三成が動員した近隣の農民などの作業員は10万人。労賃としては昼が米1枡と永楽銭60文、夜が米一枡と永楽銭100文が支払われています。

高松城では、1俵につき銭100文・米1枡が対価だったのに比べると、1日働いて60文から100文というのは安いと感じるかもしれませんが、実はここに関東独自の事情がありました。

というのは、北条氏は領内で永楽銭以外の貨幣の使用を禁じていたのでした。それに対して、秀吉の地盤である近畿はびた銭などの粗悪な銭が多く使用されていました。つまり、作業員たちが地元で使える永楽銭は、近畿で流通している銭の2倍~10倍という価値があったと言われています。だから、忍城攻めでの永楽銭100文は高松城攻めでの銭100文とは比較にならない高額ということになります。

ところが、これだけ米銭を投入して築き上げた堤防をもってしても、忍城は落ちませんでした。堤防で引き込む予定だった利根川と荒川の水量が意外と少なかったうえ、タイミングよく豪雨が降ると、今度は城内からひそかに出た兵が堤防を破壊し、かえって豊臣軍側に270人という死者が出てしまったそうです。


そのうえ城方は堤防工事の際に兵たちを作業員に紛れ込ませて三成が配った米を高値で買い取らせていたから、いくら包囲を続けても兵糧不足になる様子も見えませんでした。

結局城は、北条氏の降伏後に明け渡されることになるのですが、城主で小田原城に籠城していた成田氏長は秀吉に黄金500両を払って助命されています。米の高値買い取りの件といい、忍城の金蔵には相当な額の金銭が貯めこまれていたようですが、これは恐らく利根川と荒川によって太平洋と北関東を結ぶ船運びから得られた利益だったと予想します。ある意味、三成は忍城との「資本競争」に敗れたとも言えます。


三成の武将としての履歴には傷はついたものの、関東は秀吉によって平定され、続いて奥羽もその傘下に入りました。長く続いた戦国時代が終わり、ようやく天下統一がなあされました。


太閤検地の物差しにか書かれた三成の名の意味

そうなると、トップ官僚としての三成の出番がやってきました。「太閤検地」です。日本国中、隅から隅まで田畑の面積を確認し、1段を従来の360歩から300歩に改めたのが、これは農業の技術が進歩したためにかつては360歩から収穫していた米の量が300歩から取れるようになったためとされていました。

また、耕作者を直接把握することによって地主などの中間搾取を排除したために、その分を年貢に上乗せしようという目論見もあったのでしょう。


納税者にとって16%以上の苛酷な増税という事実は痛いですが、豊臣政権にとって全国の土地基準を統一したのは大きい功績でした。この検地に用いられた測量道具が「検地竿」と呼ばれる長さ1間(190cm程度)の竿で、その竿を作成する基準となったのが「検地尺」という1尺の物差しでした。

そして、この検地尺に署名を入れたのが、三成その人でした。つまり、彼は日本の土地を総元締めとなったのでした。


同時に枡もやや大ぶりの京枡に統一されましたが、これも増税に貢献しました。三成は経済面での「天下統一」の立役者でした。

義に生きたもう一人の武将 石田三成

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悲劇の智将 石田三成 (別冊宝島1632 カルチャー&スポーツ)

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