義久が考案したという釣り野伏せを弟たちが用いた島津の最強伝説

関ヶ原の戦いの島津義弘陣跡
関ヶ原の戦い島津義弘陣跡

戦国最強と呼ばれた島津四兄弟

1582年、天下布武を目指した織田信長本能寺の変に倒れ、信長を討った明智光秀を破った羽柴秀吉が天下をその手中に収めようとしていました。


その翌々年の1584年、台頭してきた肥前国の龍造寺氏を服属させ、大友氏を残して九州統一を目前にしていたのが、薩摩国守護大名であった島津氏です。


島津氏は、鎌倉幕府源頼朝に、薩摩、大隅、日向の三州の守護職を任された有力御家人島津忠久を祖とします。その後の南北朝から室町の政権下でも、一族間の内紛を起こしながらも生き残り、戦国時代には大友氏や龍造寺氏と並ぶ九州の有力大名となりました。(そして、江戸末期から明治へと、倒幕や維新の中心人物を多く輩出する薩摩藩の藩主の家系です。)


その戦国時代、島津氏の名を全国に轟かせたのが、長兄であり、島津家第16代投手であった島津義久、そしてその次男義弘、三男歳久、四男家久の島津4兄弟です。

そして、その礎を築いたのが、4兄弟の祖父島津忠良と、父島津貴久です。貴久は薩摩島津氏の分家の伊作家に生まれながら本宗家の弱体化により、家督を相続。島津家第15代当主となった人物です。

しかし、四兄弟が生まれた1532年〜1555年には、島津家が代々居城としていた鹿児島本城と言われた清水城を追われ、伊作・伊集院城にあって、鹿児島奪還を図っていた時期でした。


そうして、貴久ら1550年、薩摩半島を平定。伊作・伊集院城から新たに築いた鹿児島の内城へと本城を移し、島津家の旧領であった3カ国糖質を目指して、北薩、大隅方面への侵攻を図ったのでした。

喜久、義弘、歳久、家久の島津4兄弟が最強と言われる理由は、その戦略と武勇によって、寡兵で大軍を破っていることに尽きます。

最強の座に引き上げた島津家必殺の戦術

それを象徴している戦いが300人余りの島津兵が日向の伊東義祐の3000人を超える軍勢を破った木崎原合戦であり、2万人の島津兵が豊後の大友宗麟の4万人の軍を討った耳川の戦いです。

まず木崎合戦だが、これは1572年、飯野城を本城として加久藤、吉田、吉田、吉松の各城に布陣していた義弘の軍が、加久藤城を攻め落とせず木崎原に陣取った伊東軍を討った戦いです。戦闘開始の狼煙で集まった島津軍が伊東軍を包囲する形となり、大勝利を収めたのでした。


ただし、一説では、この戦いは戦術によって釣り野伏せが完成したのではなく、偶然に包囲殲滅が行われたと言われています。しかし、いずれにしろ、少数の義弘軍が大軍を破った戦いです。

続いて耳川の戦いですが、これは木崎原の戦いに敗れた伊藤義祐が豊後の大友宗麟の元に逃れ、日向が島津の支配下に置かれたことから、これを憂慮した宗麟が1578年に日向に攻め込み起こった戦いです。

このときの大友軍総大将は田原紹忍でしたが、3隊に分かれた島津勢の1隊であった義弘隊を小勢と侮り釣りだされ、そこを側面から義久隊、さらに高城の家久隊に挟まれ、大友軍は壊滅的打撃を受け敗走。逃げる大友軍を耳川で補足した島津家が攻め大勝利を収めたという、まさにこれこそが釣り野伏せの真骨頂と言える戦いでした。