日本国内の戦法で挑んだ朝鮮出兵、秀吉の死後即座に撤退した理由

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日本国内の戦法で挑んだ朝鮮出兵

朝鮮出兵と言われる文禄慶長の役は、1592年と1598年と2度にわたって行われた。豊臣秀吉が主導する遠征軍と明及びその朝貢国である李氏朝鮮の軍との間で朝鮮半島を舞台に起こった国際戦争です。

これは天下統一や大阪城の築城と同様に、織田信長の未完のプロジェクトを引き継いだものと言われていましたが、秀吉率いる日本軍は中国を武力で征服することなく、撤退を余儀なくされました。


朝鮮出兵はなぜ失敗に終わったのか。直接の原因はやはり秀吉の死になりますね。慶長3年5月から秀吉は病に伏せるようになり日々病状が悪化。そして8月18日にその生涯を終えると、これを受けて五大老五奉行が朝鮮からの鉄平を決定。明軍と和議を結朝鮮から撤退しました。


それまで初戦に勝利していたことからも、決して戦況が不利が直接の原因ではなかったと考えられていますが、秀吉の子から撤退までが短かったことから、政権内でも朝鮮出兵は乗り気ではなかったことが伺えます。

文禄の役でその総司令官は20歳の宇喜多秀家で、統率力のある人物ではありませんでした。そして彼に従うのは、加藤清正小西行長、小早川景隆などといった猛将の面々で、秀家の軍監として就いていた黒田官兵衛でさえも彼らをまとめることができなかったほどでした。


結果、前線はむやみに北上、連携が取れなくなり、場所が把握しづらくなり輸送が困難になっていったのです。


また朝鮮海軍は倭寇との戦で鍛えられた精鋭だったにも関わらず、秀吉はその対策を全くしていませんでした。


大型の戦艦に多数の砲や石火矢を備える明の水軍とは違い、小型の関船や小早船で火縄銃が主力であったため、さほど規模の大きくない朝鮮水軍にも苦戦しています。


それに加えて、日本よりも朝鮮半島の冬は厳しく、文禄の役平壌で大敗した日本軍は、口に雪を含み飢えをしのぎ、いくつもの凍結した川を渡りながら撤退したため凍傷になり、多くの兵が足の指を失ったと言われています。


日本は戦国時代を経て、兵は熟練し、世界でトップレベルの小銃保有数でしたが、鉄砲隊や騎馬隊などといった兵科別の編制はされていませんでした。


集団的な戦法を長槍を揃えて戦うくらいで、各武将ごとの混成部隊で編成されているに過ぎませんでした。そのため、城に籠られると攻撃に手こずり、一度占領したとしても明の大砲の前にあっさりと撤退していました。


やはり、これは日本の城攻略のレベルが砦程度のものに過ぎず、大規模な城の攻撃に必要な重火器や長梯子の重要性を無視していたためでした。


たとえどんな大義名分があったとしても、朝鮮出兵に参加した武将たちは、補給を絶たれ周りには敵だらけの状態に。ただ苦しいだけの戦争に嫌気がさしていたはずです。


そんな中で秀吉の死後も継続すると、確実に日本軍は疲れ果て、追い詰められるのは目に見えていました。


結局は明・朝鮮を疲弊させ、国交を断絶させただけで、他に何も得るものがない戦となりました。

また朝鮮出兵は、多くの兵役を課せられた西国大名を疲弊させ、家臣たちの内乱や分裂を引き起こすことになり、豊臣政権の基盤を危うくする結果となりました。

スペインよりも先に明を支配したかった秀吉

では、秀吉が朝鮮出兵の目的はなんだったのでしょう?豊臣秀吉が天下を取って日本全国を掌握したことにより、家臣の間で不満が溜まり、それを逸らすはけ口として朝鮮出兵を行なったのが、学校の歴史の授業では習った覚えがあります。


ただ本当の理由は当時のアジア情勢が大きく影響していました。その国内外の事情をしっかり理解したことにより、東北の大名たちまでもが朝鮮出兵に協力して、兵を出していたのです。


この時代、東アジアでスペインにまだ征服されていない国は、明と日本のみだったのです。


日本に初めてスペイン人が来たのは、1549年の宣教師フランシスコ・ザビエルの来日の時です。当時のスペイン宣教師は、表向きはキリストの伝道師でしたが、裏の姿は立派な軍事組織でした。伝道と見せかけ、うまく改宗させるや、首尾よく軍隊を送り込んでは殺戮や財宝の強奪、植民地支配などを行なっていました。


スペインの貨物船・サン・フェリーペ号が遭難し、土佐の浦戸に漂着した時、取り調べに当たった秀吉・五奉行の一人・増田長盛が救助した船員からその事実を知ることになりました。


もし、スペインが日本に攻めて来たら・・・。これは相手が海を越えめくるため、人数も武器も優位に立てるため問題はありません。しかし、明を支配されると話は変わってきます。スペインよりも先に明を支配下に置くことで対スペインに有利に立ちたい、また朝鮮出兵で日本の国力をスペインに見せつけておきたいという意図がありました。

しかし、やがてそのスペインがイギリスやオランダに押されはじめ、日本や明に構ってられる状態ではなくなりました。スペインの脅威がなくなった段階で、朝鮮を支配する必要もなくなったのです。これも撤退した理由の一つでもあったとされています。