本能寺の変の現場から早朝に逃げていた博多の商人・島井宗室の謎

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本能寺の変の前の不可解な茶会

1582年、天下統一を目の前にして、織田信長は、明智光秀の裏切りにあって殺されました。謀反に際して『敵は本能寺にあり』と言ったとされる光秀は現在裏切り者の代名詞として広く知られています。


一方、戦国時代には、そうした血生臭い事件をよそに茶の湯が流行していました。茶の湯とは、伝統的な様式に則り客人に抹茶を振る舞う日本独特の文化のことで、単に茶を飲むことを楽しむだけでなく、茶道具や茶室に飾る美術品も楽しみ、さらには人生の目的や考え方をも追求するという実に深い総合芸術と言えます。


戦国時代に武将も戦乱から一時離れて茶会を催して、熱いお茶を飲んだり、歌を詠んだりして大いに楽しんだとされます。茶会に呼ばれた者は、そこお返しに茶会を開き、それが次から次へと持ち回りのように繰り返されていました。

ただ茶会は非常に狭い茶室で催されたので、密談の舞台になることもありました。戦国武将や貴族、豪商などが茶会で顔を合わせ、秘密の交渉や裏工作を行うといったことが珍しくなかったのです。

そして、織田信長が天下統一を目の前にして倒れた本能寺の変の裏にも、この茶会の存在があったと言われています。事件の黒幕が、なんと茶人たちだったのではないかという説があるのです。

なぜ天下人・信長が博多の商人を茶会に招いたのか?

本能寺の変は1582年6月2日に京都・四条西洞院の本能寺でおこりましたが、その前日の6月1日に信長は同寺の書院で茶会を催していたそうです。

そこ茶会で、信長は安土城から運んできた秘蔵の名物茶器38種類を披露したといわれています。信長の名物茶器の収集有名であったそうですが、わざわざ本能寺まで運んだのは訳がありました。

そもそも茶会は博多の商人・島井宗室をもてなすために開かれたものであり、信長は宗室に披露するために茶器を用意していたのです。

宗室を厚遇したのは、将来の九州攻めに備えてのこととされます。信長は博多の商人たちと友好的な関係を築くことによって、九州制圧時の物資調達を円滑に進めようと考えていたようです。


茶会は大盛況であったそうで、やがて酒宴へと発展しました。その後、さらに囲碁の対局まで行われ、お開きになったのは真夜中。その数時間後に本能寺の変が起こったのでした。

信長が目を覚ましたとき、すでに本能寺は光秀の軍政に包囲されており、信長の必死の焼け石に水でした。つまり、信長が前日に夜更かししていなければ、より早く光秀の軍政に対処できていた可能性も捨てきれませんよね。


信長が接触を図った島井宗室は、単なるお茶好きの商人ではなく、九州の有力大名・大友氏とも資金面で良好な関係を持ち、博多支配の一翼を担う豪商でした。また、積極的に機内に赴いては堺などの茶人・豪商と深めていきました。


本能寺の変の前日、宗室は博多から京都へ出てきた信長の茶会に出席し、そのまま客人として本能寺に泊まっています。


しかし、本能寺が光秀の襲撃を受けて炎で包まれる前に、どうせ燃えてしまうものだから、と弘法大師真蹟千文字の軸を持って逃げたと伝えられています。

信長と商人達の間の隔たりとは?

これらを踏まえると、明智光秀と島井宗室らが共謀して本能寺の変を起こしたという構図が見えてきます。

楠誠一郎の著書は日本史謎の殺人事件の中で、本能寺の変を計画したのが、堺の商人で光秀の茶の師匠であった津田宗及、計画実行のための舞台設定を行ったのが、博多商人である島井宗室、そして実行犯が光秀だったのではないかと述べています。

豪商たちは、信長の武器商人として働き、多くの富を得てきました。しかし、信長は堺からだけではなく、本能寺を経由した武器の買い付けも画策していました。豪商たちは商売の危機を感じ、信長を邪魔な存在とし見なすようになったのです。

また、宗及は茶人として信長がに重用されていましたが、信長の寵愛は次第に千利休に傾きつつあり、やがて信長から見捨てられるのではないかとの不安もあったと想像できます。


こうしたことから、豪商たちは信長を本能寺もろとも消そうとしたというのです。これまでの常識を覆す驚くべき仮説です。

茶会で密談を行い、都市部の物流を掌握らさらには大名暗殺までも計画します。戦国の歴史を作ったのは、武将ではなく茶人だったのかもしれませんね。


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