ピース又吉さんが演じる徳川家定に期待。後継者争いを起こしたボンクラ将軍の暗殺説。

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徳川歴代将軍一のボンクラ将軍が最も激しい権力争いを巻き起こした

江戸幕府の歴代の将軍には15人の将軍がいました。その中でも最悪のボンクラ将軍と言われる、悪評が残ってしまった哀れな将軍こそ、13大将軍、徳川家定です。大河『西郷どん』ではピースの又吉さんが演じられていますよね。少し失礼な表現かもしれませんが、家定という人物を演じる上で風貌とか雰囲気とか又吉さんはぴったりなんじゃないかと思います。暗くて病弱な感じですし。篤姫のときは、堺雅人も良かったですけどね。

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家定の先代の12代将軍・徳川家慶は子宝に恵まれ、20数名子供がいました。しかし、生まれつき身体が悪かった子が多く、無事に成長したのは家定ただ1人しかいませんでした。そのため、家定は周囲からちやほやされながら暮らし、30歳で苦労せずにして将軍の座に就くことになりました。

しかし、徳川家定にも問題がありました。家定も兄弟と同じく、生まれつき虚弱体質の上に、奇行が目立ったのでした。例えば、もういい大人なのに鳥を全力で追いかけ回したり、家臣に小銃を突きつけ驚く様子を見てはしゃぐなど、「まるで児童の如し」と言われていたと残っていました。

また、将軍のクセに厨房でサツマイモやかぼちゃを煮たり、饅頭やカステラを作るなど料理が好きで、武士の頂点に立つ者として、家臣たちには家定があまりに情けなく映ったのかもしれません。

さらに、癇癪持ちで生様できなかったため、“癇癖将軍”と揶揄されていたとそうですね。

どうにも将軍らしいエピソードが残っていない家定ですが、家定は将軍就任後、わずか5年であっけなくこの世を去ってしまいます。享年35歳。死因は脚気だったとされています。
その短い生涯の中で、3人の妻をめとったが、そのうちの2人は若くして病死しており、3人目目の妻として薩摩藩・島津家から迎えられた篤姫との間には子供ができませんでした。そのため家定の在世中より、次の将軍の後継者問題が持ち上がったのでした。

家定将軍の後継者候補には2人いました。

まず1人目は水戸藩主・徳川斉昭の子で、御三卿の一橋家に養子として入っていた一橋慶喜でした。慶喜は少年の頃から、高く才覚が評価されており、12代将軍・家慶が養子に迎えて後継者にしようと考えていたほど、英邁な人物でした。

家慶には家定という実子ができたので、慶喜を養子にする話は実現しませんでしたが、家定に健康問題があることがわかり、子ができなかったこともあって、再び将軍候補に浮上してきました。

もう1人の候補者は、紀伊藩の藩主徳川慶福でした。四歳の時に紀伊藩・藩主となりましたが、家定にもっとも近い血筋の人物ということで、後継者候補におどりでました。

慶喜を支持したのは、福井藩主・松平春嶽薩摩藩主・島津斉彬土佐藩藩主・山内容堂慶喜の父・徳川斉昭らで、彼らは『一橋派』と呼ばれました。一方、慶福を支持したのは彦根藩・藩主井伊直弼らが譜代大名や大奥で『南紀派』と呼ばれていました。

一橋家vs南紀派~徳川家定井伊直弼の傀儡だったのか~

一橋派と南紀派は、熾烈な争いを繰り広げます。平時であれば血統が重視され、慶福がすんなり後継者に選ばれていた可能性が高いはずでした。しかし、当時は平時ではありません。アメリカ提督・ペリーをはじめとして、欧米列強が次々と日本へ押し寄せ、開国を迫る非常事態でした。

結局、家定の後継者問題は、大老に就任した井伊直弼が強権を発動したこと南紀派が優勢になりました。そして、なんと井伊を大老に任命したのはそれまで全く将軍らしい振る舞いをしていなかった家定でした。家定は死の間際で初めてリーダーシップを発揮したのでした。

ただし、家定は南紀派に働きかけられた大奥から「一橋派があなたを将軍家から引きずり降ろそうとしてしていますよ」と吹き込まれたと言われています。これを聞いた家定は一橋派を警戒、南紀派支持に回ったそうです。

これが事実であれば、家定は南紀派の傀儡にすぎなかったことになりますね。

徳川家定の死因には暗殺説が根強く残る

家定が若くして亡くなったのは、井伊が慶福(のちに家茂と改名)を将軍後継に定めてから間もなくの頃でした。死因は先述した通り、脚気とされましたが、このとき大きな謎が生まれました。家定の死が公になったのは、死後一カ月あまり経ってから。このタイムラグのために、「家定が暗殺されたのではないか?」との説が囁かれるようになったのでした。

当初、家定暗殺の犯人と目されたのは後継者争いに敗れた一橋派の一橋慶喜の父・斉昭でした。一橋派敗退の原因を作った家定を恨み、気性の激しい斉昭が岡礫仙院と称する奥医師と共謀して家定を毒殺したというのでした。

一方で、南紀派だった井伊直弼が黒幕ではないかと言う説も唱えられていました。慶福を後継者として擁立したのはよかったのですが、井伊にはまだ不安がありました。


家定の正室・篤姫の存在でした。篤姫は一橋派の島津斉彬の養女です。薩摩藩から徳川家に嫁ぎ、家定没後は天璋院と号して、大奥の責任者を務めるなどしていました。

井伊直弼は家定の性格についてよく知っていました。家定に後継者問題に強い意志がないことを普段から危惧されていて、家定が篤姫に口説かれて一橋派に傾くことを恐れていました。そんなことがあってしまえば、井伊家の権勢が一気に崩れ去ってしまうためです。そのリスクを取り除くために直弼が家定に手をかけ、慶福の時期将軍の座を確固たるものにしようとしたのではないか、と言うのです。

傀儡として操られ、ついには毒殺までされたと言われる家定。「最も才がなかった将軍」は周りからも邪魔もの扱いされた挙句、悲惨な死を遂げた「最も悲運な将軍」でもあったのかもしれません。

第2図書係補佐 (幻冬舎よしもと文庫)

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