応仁の乱は足利義政の正室日野富子の嫉妬と不倫がきっかけだった

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応仁の乱の口火を切った形となった御霊合戦が繰り広げられた場所。

応仁の乱のきっかけは足利義政の正室・日野富子のゲス不倫

応仁の乱とは、1468年、全国から25万人以上の軍勢が京都に集まり、二手に分かれて争い、戦国時代の始まりと言われている戦です。

衝突は11年に渡って続き、京都の町は完全に焦土と化してしまいました。しかも、争いは京都だけにとどまらず、地方にも波及していきました。

応仁の乱をきっかけに、世の中が戦乱の時代へと移り変わっていきました。


つまり、応仁の乱をきっかけに日本は戦国時代へ突入したわけですが、この歴史の転換となった戦の原因を作ってしまったのが、室町幕府第八代将軍・足利義政の正室・日野富子だと言われています。

日野富子は日野政光という公家の娘で、16歳のときに義政に嫁いでいます。その4年後に最初の子を産みましたが、死産。その後、数年経っても跡継ぎを産むことができませんでした。そこで義政は自身の弟・義視を後継者として選んだのでした。



しかし、結婚から十年後に富子は念願の男児を出産します。のちの足利義尚です。


しかし、困ったのが将軍の跡継ぎ問題。富子が義尚を産んだことで、息子を将軍にしたい義政と義視との関係は微妙なものとなっていきました。次第に互いが反目するようになっていきました。(歴史は繰り返すとよく言いますが、豊臣秀吉が息子・秀頼を溺愛した経緯にもよく似ていますね。)


そのころ、朝廷で驚くべき噂が立ちました。富子はあろうことか当時の天皇後土御門天皇と不倫をしていて、その間にできた子供が義尚だと、噂が流れました。将軍の妻で、天皇と不倫して子を産む、なんて命知らずな女性なんでしょうね。

富子の長年溜まっていた義政への不満

この噂が本当ならば、富子は密かに策謀を企てていったことになります。将軍家の血筋を引いていない我が子を、将軍の地位に付けようとしたことになるからです。


ただ、富子に同情しないわけでもありません。


将軍で旦那の義政は酒色や趣味に溺れた人物と知られています。可哀想なことに富子が義政の正室になった時には、既に多くの側室がいました。


中でも義政は今参局という女性を寵愛していたため、御所の奥座敷は彼女の支配下にありました。さらに、側室たちは次々に男子を産んでいました。


そうしたなかで、富子には男子どころか子もなかなか産めなかったという、周囲からの圧力もあったと、想像にたやすくありません。


さらに追い打ちをかけるように、義政が義視を後継者に選択してしまいます。これには富子も大激怒。


室町御所を出て、皇居にいる叔母の下に滞在しました。このとき後土御門天皇と密会し、義尚が生まれたとされています。


数多くの側室を抱え、今参局を寵愛し、弟を将軍後継者にした義政に、富子の不満が爆発して不倫に走ったことは十分に考えられます。


義尚は天皇と不倫によって生まれた子なのかどうか、史料が乏しく真実は謎に包まれたままですが、ただ「富子ほどのしたたかな女なら、天皇と不倫をしかねない」と信じる人は少なくありません。

富子は“希代の悪女”

富子の悪女ぶりを示す、驚くべき噂があります。それは、今参局殺害の黒幕説です。


先に触れたように、今参局は義政の寵愛を受け、側室でありながら御所奥座敷内の権力を握っていた女性。富子はこの今参局に嫉妬し、画策して死においやったのではないか、というのです。


当時、富子は義政との子を死産したばかりでした。これを富子は今参局の呪いのせいだと義政に直訴。すると、巷でもその噂がしきりに流れたのでした。


今参局を寵愛した義政も、富子が跡継ぎを死産してしまったということで、自身も怒りを爆発させ、今参局を調査するように命じました。


その結果、ほとんどかどうかは定かでないまま、今参局は呪いをかけたと判断され、琵琶湖の沖島への配流処分が科されたのです。さらには、いよいよ沖島へ護送されるというとき、今参局は配流処分から死刑に急遽変更されたのです。

死刑の判決に変わり、刺客が今参局を追いましたが、彼女も死刑になるのを良しとせず、途中の近江の国で自害してしまいます。


この事件も、今参局が富子に呪いをかけたという噂が流したのも嫉妬のあまり富子が仕組んだ陰謀だったと言われています。

将軍家後継を巡って“骨肉の争い”

今参局を奥座敷から排除した富子はなんとしても、我が子義尚を将軍に就けようと画策しました。そんな中、富子は幕府の実力者である山名宗全を頼りました。


一方で、これに対し、義視側は元管領(将軍に次ぐ高位の役職)の実力者・細川勝元に援助を頼み、山名と細川の両者は激しく対立しました。さらに、官僚候補の家柄でえある畠山家と斯波家も家督争いで分裂し、それぞれが山名派と細川派と対立する派閥を形成していきました。


こうして「義尚」対「義視」の対立が畠山家と斯波氏との対立を巻き込み、さらに諸国の守護大名を巻き込んで大規模な争乱に発展しました。1467年には「応仁の乱」の勃発へえと至りました。


結局、富子は義尚を将軍の位に就けることには成功します。しかし、義政はそんな富子に嫌気がさしたのだろうか、晩年になると屋敷を去り、別居生活を選んだのでした。当時、将軍夫妻別居は前代未聞のことでした。