推古天皇の裏の顔!?蘇我馬子と共謀し崇峻天皇を暗殺事件の裏側

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蘇我馬子の墓と言われている石舞台古墳Wikipedia石舞台古墳』より

前代未聞の大事件女帝推古天皇の裏の顔とは

日本の天皇家は、神代から脈々と続いてきたとされていますよね。その長く膨大な歴史の中には、時代に恵まれず、悲劇的にも自分の家臣に暗殺されてしまった天皇がいました。587年、用明天皇の次に即位した第32代天皇崇峻天皇です。在位期間は5年程度でした。


日本の長い歴史上はっきり記されている家臣による天皇暗殺事件は、崇峻天皇暗殺事件以外には記されていません。崇峻天皇の暗殺事件は、それだけ重大な前代未聞の大事件になります。


実行犯ではありませんが、崇峻天皇の暗殺事件の首謀者として目されているのは、時の権力者・蘇我馬子崇峻天皇の前の用明天皇崩御した後には、蘇我馬子自らが用明天皇の異母弟のの崇峻天皇の後ろ盾となって天皇に即位させました。

そう、蘇我馬子は、擁立した崇峻天皇を即位後5年で亡き者にしてしまったのおです。


今から1500年以上も前の事件なので、当時のことを明確に残したものはなく、蘇我馬子による天皇暗殺事件は謎が多いのです。どうして、自ら擁立した天皇を5年で殺害してしまったのか。また、蘇我馬子はその地位から表立って実行したわけではないので、協力者がいたはず。

蘇我氏物部氏の権力争いに巻き込まれた皇子たち

そもそも崇峻天皇は、欽明天皇の12番目の息子であり、母は欽明天皇の補佐をした蘇我稲目の娘の小姉君。即位前は泊瀬部皇子と言いました。

ただ当初、欽明天皇の12番目の皇子であり、後継者として優先順位として序列は低かったと考えられます。当時、有力視されていたのは泊瀬部皇子ではなく、兄の穴穂部皇子でした。穴穂部皇子も泊瀬部皇子同様、欽明天皇と小姉君の子で、泊瀬部皇子よりも年齢的に上、しかも、蘇我氏との肩を並べるほどの有力氏族の物部守屋に推薦されていたからです。

ところが、穴穂部皇子の即位は幻に終りました。587年、後ろ盾だった物部守屋蘇我馬子との権力争い丁未の乱(表向きには、仏教の礼拝を巡った争った)に敗れ、穴穂部皇子自身も蘇我馬子によって暗殺されたからです。

丁未の乱に勝利し、権力を掌握した蘇我馬子は、用明天皇崩御するとすぐに泊瀬部皇子を崇峻天皇春として即位させました。馬子はまた、欽明天皇の娘である炊屋姫(後の推古天皇。母は蘇我稲目の娘、堅塩媛)と結び、朝廷での権力を一気に確立してしまったのでした。

どうして蘇我馬子は“天皇暗殺”を企てたのか?

こうしてを蘇我馬子と炊屋姫の2人で政治の実権を握ることにとなり、崇峻天皇はただのお飾りのような存在でした。

崇峻天皇天皇に即位できたのは蘇我馬子のおかげとは言え、当時の政治の中心地である飛鳥から10キロ以上も離れた倉梯と言う山間部に追いやられ、彼の胸中は不満が積もるばかりだったと想像できますよね。

そんなときに、崇峻天皇蘇我馬子から献上された猪を見て、『この猪の首を切るように、いつか自分も自分の嫌いな男の首を切ってやりたいものだ』と漏らしていたとも古事記には書かれていました。。そして、この頃から、崇峻天皇蘇我馬子を倒すための兵を集め始めたともいわれています。

崇峻天皇が兵を集めるなどの不穏な動きを察知していた蘇我馬子は、すぐに崇峻天皇暗殺を決意。蘇我馬子みずから渡来人の東漢直駒に暗殺命令を下したと言われています。東漢直駒は『東国から貢物を献上する』といった名目で崇峻天皇に会い、暗殺を決行したとされています。

当時、蘇我馬子は絶大な権力を持っていたので、たとえ相手が天皇であったとしても、自分に刃を向けようとする輩は何人たりとも許せなかったのかもしれません。また、外交政策における崇峻天皇との意見の不一致が直接の原因とも言われています。


とはいえ蘇我馬子ほどの策略家がそうした単純な理由で、天皇暗殺という大罪を犯すのかという疑問も残ります。そのため、崇峻天皇事件の裏にはまだ明らかになっていない黒幕が存在したのではないかという説も言われています。
その黒幕として最も有力な説は姉の炊屋姫だと言われています。

崇峻天皇暗殺の黒幕は推古天皇

崇峻天皇が暗殺されたことで、炊屋姫は推古天皇として即位します。推古天皇といえば、聖徳太子摂政として、大陸からの先進的な政治制度を導入したり、仏教文化を中心とした飛鳥文化を開花させた日本初の女帝です。

即位前とはいえ、その推古天皇が事件の首謀者とはにわかには信じがたい話ですが、彼女が黒幕だったことを有力な説になった記録は残っていました。崇峻天皇の死後に遺体の扱われ方の不自然さです。
通常、天皇が死んでしまった場合、遺体はすぐには埋葬せず、棺に納めたまま一定期間安置する“もがり”という儀式が行われます。ところが、日本書紀によると、崇峻天皇が死んだ際には、この“もがり”の儀式が省略されたとそうです。崇峻天皇の遺体は即座に倉梯岡陵に埋葬されました。


これは崇峻天皇天皇として扱わなかったということを示唆するものであり、いくら蘇我馬子といえども彼の一存で実行できるものではないと考えるのが普通です。蘇我馬子よりも権威が高かった者が指示したとなると、その人物は推古天皇以外に考えられないのです。

そして、崇峻天皇を直接を暗殺した東漢直駒の処遇にも注目されました。彼は、馬子の娘と密通したという理由で処刑されたのです。そして、東漢直駒に暗殺命令を出した馬子は、何一つ罪を追求されていません。(すでに明るみになっているはずですが・・・)

つまり、推古天皇蘇我馬子の計画になんらかの協力をしていため、蘇我馬子は処罰されず、東漢直駒はその真相を知りすぎたから殺されてしまった、とする見方ができますよね


こうしたことから崇峻天皇暗殺事件は、蘇我馬子崇峻天皇との確執だけ原因で企てたのではなく、炊屋姫に糸を引かれていたのではないか?とする説が有力とされています。これも、あくまで憶測でしかなく、決定的な証拠はありません。

ただ、残っている事件後の状況から考えれば、この憶測もあながち間違ってはいないと思います。この謎は、今後の日本史研究次第では、現在の教科書には載っていない、皇家断絶をつないだ女帝・推古天皇のイメージを覆す裏の顔が明らかになるかもしれませんよね。