ジェームズ・ボンドを輩出したイギリスに女スパイとして侵入した日本人女性がいた


鹿児島県がイギリスと戦争する

今では考えられないことですが、幕末には薩摩藩とイギリス艦隊による戦争・薩英戦争が勃発しました。

この戦争のきっかけになったのは、1862年に起こった生麦事件です。その時、薩摩藩の指導者・島津久光は、江戸から京都に戻ろうとしていました。その途中、神奈川県の生麦村に差し掛かったところで、4人のイギリス人が騎乗のまま列を横切ったため、藩士が激怒。1人を惨殺し、2人に重傷を負わせたのです。


イギリス側は近代的武器を装備していたため、当初は薩摩藩の苦戦は必至と思われたところ、薩摩藩が意外にもめちゃくちゃに強かったのです。

攻め込んできたイギリスを薩摩藩が追い返したのです。イギリス艦隊の7隻のうち、無傷だったのはインディアン号の1隻だけ。2隻が沈没し、4隻が損傷されるという有様で、イギリス側の多くの将兵が戦死しました。


一方、薩摩藩はイギリス側の砲撃で鹿児島の町の一部が焼けたものの、それ以上大きな被害はなかった。つまり、薩摩藩はイギリスを相手にした戦争に勝ってしまったのです。


しかしながら、なぜ薩摩藩はそこまで強かったのでしょうか。実は薩摩藩の勝利の陰には、女性スパイの存在があったと言われます。“おむら”という名の女性です。

イギリス将校を骨抜きにしたラシャメンの色仕掛け

おむらは、生麦事件に起こったイギリス艦隊が幕府に抗議した際、イギリス将校を懐柔するために送り込まれたラシャメンの1人でした。ラシャメンとは、西洋人の愛人になった日本人女性のことです。

当時23歳だったおむらは、勘が鋭く器量が良かったことから、イギリス艦隊の指揮官クーパーに気に入られ、横浜にある彼の屋敷で暮らしていました。

クーパーの屋敷では、イギリス将校の会議がしばしば開かれており、おむらはここで情報を収集しました。そして、週に一度許されていた外出の際、薩摩藩士の木藤彦三とあって極秘情報を伝えていたと言います。


薩英戦争の際、おむらはイギリス艦隊が横浜から薩摩に向かう日を伝えていました。また、薩摩へ行くのはただの威嚇で、砲弾はあまり積んでいないこと、イギリス将校たちはラシャメンに溺れて士気を落としているこたなども伝えていました。


こうした情報得た薩摩藩は、ありったけの大砲を用意して、イギリス艦隊を待ち受けていたのです。

薩摩藩の大勝利は、おむらをはじめとするラシャメンたちが、イギリス人に渾身のサービスをした結果とも言えます。

女スパイ・おむらはその後・・・

ところで、このおむらはどういう理由でスパイという危険な仕事を引き受けたのでしょうか。それは、おむらが薩摩藩の木藤彦三と恋仲で、彼にスパイになるような勧められたからです。

木藤は生麦事件の後、イギリス側の動向を探るために調査を開始しており、イギリス軍の拠点の1つである上海に渡って、情報収集に努めました。


その結果、イギリス艦隊による攻撃の時期や装備を知るためには、「日本で直接イギリス軍を偵察し、生の情報を得るしかない」と確信します。

そこで、木藤が考えたのが、ラシャメンを使ったスパイ作戦でした。木藤は江戸に戻って集めた女性のなかからら芳町で芸者をしていたおむらに白羽の矢を立てます。そしておむらを口説き落とし、クーパーの元に送り込んだのです。

木藤は美男子で、おむらは彼に一目惚れしていたそうです。木藤の頼みとあっては、スパイという危険な仕事でも引き受けてしまった、と言われています。


薩英戦争の後、おむらは重傷を負って横浜に戻ってきたクーパーとすぐに別れ、木藤の妻になったそうです。そして、江戸人形町で店を持ち、木藤と共に仲良く暮らしていたそうです。


おむらが女スパイとして活躍したのは、わずか4カ月。その間におむらは見事に使命を果たし、幸せを手にしたのです。

まるで短編映画の題材にもなり得そうな話ですが、この時にイギリスに薩摩が破れていたら今の日本とは大きく異なっていたのかもしれません。