平安時代の悪循環を改革しようとして有力貴族に失脚させられた菅原道真

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朝廷でも無実が証明された後、大宰府天満宮で「学問の神様」・「至誠の神様」として現代に至るまで永く人々の信仰を集める。

名家の出身ではないからこそ大改革の責任者に抜擢された菅原道真

平安時代の悲劇の人と言えば、菅原道真だと思うのです。平安時代で活躍した人物と言えば、菅原道真を挙げる人は多いかもしれません。菅原道真と言えば、学問の神として親しまれている平安時代を代表する人物です。

菅原道真は貴族の家で生まれていますが、意外にも名家の出身ではありませんでした。当時は一部の貴族だけが裕福な生活をしていましたが、菅原氏は、貴族としては地位の低い家柄でした。

菅原道真はこの時代には珍しく自分の実力の身で成り上がった人物であり、学問の神と言われる理由の一つとして、230年間でわずか65人しか合格者がいなかったという最高国家試験「文章得業生」に若くして合格しました。まさに天皇が可愛がるほどの秀才ぶりを発揮しました。

文章得業生の合格後、讃岐守(現在の香川県の知事みたいなもの)の重要ポストに就き、当時の宇多天皇の信頼を得ました。899年には、右大臣、今でいうと首相のような地位までに上り詰めました。

しかし、右大臣になった直後、道真の昇進を妬んだ京都の貴族たちから無実の罪を着せられ、京都から遠い九州の大宰府へ、太宰権帥に左遷されてしまいます。そして、名誉を回復することなく、京都にも戻ることもないまま、大宰府で死んでしまいます。

その後、道真に濡れ衣を着せた藤原時平やその関係者が、次々に不審な死を遂げたため、「道真の祟り」として、一時、朝廷はパニックに陥りました。学問の神様として名高い天満宮は、この菅原道真の霊を慰めるために建てられたものです。

この菅原道真の失脚は、古代史の謎の一つにもなっていました。

菅原道真は貴族の中では決して名門の出ではなかったため、藤原氏など他の名門貴族に嫉妬されて失脚しました。とういうのがもっとも一般的な見方でした。もちろん、それも要因の一つではあるのでしょうか?

しかし、そうは言っても当時の菅原道真は、“首相クラス”でもありました。しかも、宇多天皇という超強力なバックも付いていました。首相よりも地位の低い人物によって、そう簡単に首を切られたり、左遷させられたりできるものではありません。ちょっと嫉妬されたくらいで、失脚させられることはないはずです。


では、菅原道真が失脚させられてしまったのでしょうか?

菅原道真は「寛平、延喜の改革」と呼ばれる国制改革を実行しようとしたことで、京都の有力な貴族の多くから煙たがられていったのでした。

道真が京都の中心で政治を取り仕切るようになった頃、律令制による財政システムが崩れ始めていた頃と重なります。簡単に言えば、貴族たちが地方の豪族と手を結び、私腹を肥やしていたのでした。地方の豪族たちは、京都の貴族の後ろ盾を得ることで、国司に反抗。本来、国に入るべき庸調の税は、朝廷ではなく貴族たちに流れるようになっていたのでした。

全国的にそのような地方が増えてしまったがため、朝廷は深刻な財源不足に陥り、そのため朝廷から貴族たちへ報酬は減り、貴族たちはさらに地方の豪族との関係を強くして我先にと私腹を肥やす、そんな悪循環が生まれていました。

「寛平、延喜の改革」では、この悪循環を止めるために、京都の貴族と地方の豪族との関係を絶ち切り、国司による支配を復活させようとしたのでした。

この改革を切望していたのは、宇多上皇(すでに当時は天皇を退位して、上皇になっていましたが)でした。そして、改革の実行責任者として、京都の名門貴族とはか関りの薄く、中立な菅原道真を指名したのでした。

この悪循環の中で中心になっていたのが名門貴族たちでした。菅原道真は、貴族としては名門ではないので、改革実行者としてはうってつけでもありました。だからこそ、宇多上皇から改革担当者として位指されたわけでした。

しかし、もちろんこの改革に対して名門貴族たちは反発しました。彼らは自分たちの金づるの国司・地方貴族を守るために、菅原道真が右大臣に就任した途端に結託し、宇多上皇の隙を見て、道真を追い詰めていったのでした。

一部の有力貴族たちが独占していた

菅原道真が失脚した背景をもう少し詳しく説明します。

律令制の根幹は班田収受法にありました。この班田収授の制度が平安時代には、ほころびを見せ始めます。班田収授の法とは、全国の良民男子に田を貸し与え、租庸調の税を課すというものでした。

この班田収授を適用するには前提として、領民の人数の把握が必要となりました。そのため律令制では、6年1度、戸籍が作られることになっていました。そして、その戸籍を基に、班田収受も6年ごとに行われることになっていました。しかも全国一斉に、です。奈良時代までは、おおむねこの流れからは守られていました。

しかし、平安時代800年代初めころから、戸籍の作成が全国一斉で行われることはなくなり、各地でまちまちで行われました。戸籍の内容も、女性や高齢者が異様に増える現象が起きました。60歳以上は、班田収授の対象から外されるので、それを狙った偽申請が激増したのです。

簡単に言えば、奈良時代の農民も税負担に耐え切れなくなってきたわけです。班田収授の対象から外れることは、税を払わなくてもよくなるので、いわゆる脱税です。800年代の後半には、納税者の数が奈良時代の3分の1に激減したという推計報告もあるそうです。

その背景には、前にも記事にしたように、奈良時代の末期から東北地方で38年戦争が行われており、そのために農民にも多大な負担がかけられていました。また国司が必要以上に税を徴収していたケースも多かったようです。

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国司というのは、地域の徴税の責任者です。徴税の基本的な制度は律令で決められているいましたが、実際の徴収作業はこの国司に任されていましたのです。

そのため、一定の徴税量だけを中央に送り、残った分を着服するようなこともありました。現在であればこんなことがあれば、違法でしかありませんが、この時代であれば、これを違法とする決まりもなく、普通に行われていました。他には、徴税量を少なくする見返りとして、農民から賄賂をもらうことも多々ありました。

つまり、国司とは儲かるポストだったんでしょうね。

朝廷もこの弊害は認識していました。そのため、度々国司の業務の改善策を打ち出していました。例えば824年には次のような法令が出されていました。

国司の絶対数を減らし、優秀な国司に複数の国を兼任させる
・朝廷から監視を派遣し、国司の業務を監視させる
・任期中に1~2度、国司に入京させ、天皇に業務を報告させる

こうした朝廷の努力にもかかわらず、国司による税の着服は歯止めがきかず、農民たちが朝廷に訴え出たり、国司を襲撃するようなことも頻繁に起きていました。

そうこうしているうちに、班田収受の制度そのものが崩壊していきます。この頃になると農民の中にも、裕福な者と貧しい者の格差が生まれてきました。貧しい者は裕福な者に対して稲などの借財があることも多く、その借財の肩代わりとして、裕福な農民が貧しい農民の田を所有するようにもなりました。

もちろん、それは“違法”であり、国司の追及を受けることになります。だが、裕福な農民たちは、京都の貴族と結びつき、国司からの追及を逃れるようになりました。一定の貢物を差し出すことで、京都の貴族に後ろ楯になってもらったのです。そうした裕福な農民のもとに集まった田が、やがて荘園へと発展していくのでした。

このように、京都の貴族のせいで裕福な農民へ追及ができなくなったのですが、そもそも国司となって民を苦しめて私腹を肥やしていたのも、実は京都の有力貴族でした。

国司というのはやはり美味しいポストですよね。特に「熟国」と呼ばれる豊かな地域に赴任する国司は潤うことになりました。そのため貴族たちは誰も国司になりたがっていたのでした。

とはいえ、国司になるには、本人の力量をさることながら、門閥の力も必要でした。家柄がよくないと、なかなか国司になれなかったのでした。逆に言えば、門閥の力を利用して、塾国の国司のポストを独占することも多々あったそうです。

つまり、京都の有力貴族と言うのは、一方では国司となって私腹を肥やし、一方で符号農民と結託して不正な収入を得ていました。いずれにしても、有力貴族だけが肥え太っていき、朝廷の財源はますます細っていくのでした。

朝廷としてはこのような状態を当然放置するわけにもいきません。その対策を打とうしたの菅原道真その人でした。世の中が乱れて、正しい事がなかなか通らない、正直者が馬鹿を見るというのがそのまま当てはまってしまったわけです。

消された政治家・菅原道真 (文春新書)

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