2018年大河ドラマの主役・西郷隆盛。維新達成後の苦悩


西郷隆盛とその将兵たち、西南戦争にて(ル・モンド(Illustré)の速報記事)

維新後の敵は!?征韓論を巡って明治政府が分裂

薩摩藩の下級武士から討幕勢力の中核となり、江戸城無血開城を実現した西郷隆盛は「維新の三傑」に数えられる人物です。戊辰戦争を指導し、その終結を見届けた後は鹿児島に戻り、もっぱら藩政改革に従事しました。国政からは一歩引いた立場を取っていました。


しかし、ほどなく盟友であった大久保利通岩倉具視の出仕要請を受けて上京し、明治政府に参画しました。明治4年11月、岩倉使節団の海外派遣で大久保や木戸孝允らが不在になると、留守政府の筆頭参議として中央政権を主導する立場になりました。

留守政府で官制・軍制の改革を続け、兵部省を廃止して陸軍省海軍省を設置し、御親兵に代えて近衛兵を新設しました。明治6年5月には徴兵令が布告され、西郷は参議兼陸軍大将に任ぜられています。


しかし、やがて留守政府では征韓論が沸騰し、鎖国政策をとる朝鮮政府に対して板垣退助は強行出兵を強く主張しました。西郷はまず自分が全権大使として朝鮮に渡り、派兵は交渉決裂後とすべきだとし、最終的には板垣もこれに同意しました。西郷の派遣が閣議決定されました。

しかし、欧米視察から急遽帰国した岩倉、大久保、木戸らは内治優先などを掲げ、この決定に強硬に反対。政府は征韓派と内治派とに分裂し、結果、当初の閣議決定は覆され、西郷、板垣らは職を辞して下野しました。

維新の英雄から不本意のまま賊軍の将に

鹿児島に戻った西郷は明治7年6月、私学校をつくり士族とその子弟の教育に当たりました。これは新政府の方針への不満が頂点に達しようとしていた士族たちを指導し、統制しておかなければ反乱を起こしかねないという背景もありました。

しかし、明治10年、鹿児島の士族たちは武装蜂起し、反乱の狼煙を上げました。日本史上最後の内戦となる“西南戦争”が勃発したのでした。自ら開いた私学校の生徒たちの勢いに呑まれた西郷も引くに引けず、総指揮官として進軍を決意しました。新政府の大久保は、西郷が“無名の軽挙”を回避するものと信じていましたが、西郷の反乱を聞くと国家を揺るがす危機と判断し、征討軍を派遣しました。

不本意にも賊軍の将となった西郷は、8カ月の激戦の果て、ついに鹿児島の城山に追い込まれ新政府軍に包囲されました。西郷は「潔く前進して死すべし」と述べ、40余名の将士らとともに歩いて城山から下山したが、途中に股と腹に被弾しました。腹心の別府晋介に「もうここらでよか」と告げると、別府の介錯によって自刃しました。享年51、明治10年9月24日のことでした。

西郷の首は政府軍に奪われるのを恐れた配下の士族によって溝の中に隠され、残る胴体は山県有朋による終戦後の検屍を経て、浄光明寺跡に埋葬されました。のちに首も発見され、やはり山県が手厚く葬ったが、山県は生首を撫でて落涙したとも言われています。

西郷隆盛の子孫は政府の要職に

西郷は生涯3度の結婚をし、5人の子供をもうけていますが、子供たちは3番目の妻・イトに全員が引き取られました。イトと言えば、東京上野公園に夫の銅像が建てられた際、その除幕式で銅像を見るなり「宿んし(うちの主人)は、こげなお人ではなかっ!」と叫んだことで知られる女性でした。西郷の遺児たちは彼女に世話をされました。

嫡男の寅太郎は、ドイツに渡ってプロイセン陸軍士官学校を卒業し、のちに陸軍中尉に就任しました。日清戦争に参加していました。明治35年には、父の維新の功績により侯爵を授かり華族に列せられました。


庶子の菊次郎は、アメリカ留学後、宮内省台湾総督府を経て明治37年から6年間、第2代京都市長を務めました。

その後、西郷家を継いだのは寅太郎の三男・吉之助で、銀行員を経て貴族院議員、参議院議員として活躍したそうです。参議院議員時代は法務大臣を歴任しました。