ルイ十六世の死刑を執行したシャルル-アンリ・サンソンの苦悩

ルイ十六世の首を持ったシャルル-アンリ・サンソン

ルイ十六世の死刑を執行した呪われた一族

ルイ十六世の死刑を執行したのは、シャルル-アンリ・サンソンとい男でした。彼の出身であるサンソン家は、代々世襲製でパリの死刑執行人を務めてきた家系で、シャルル‐アンリはサンソン家の四代目当主でした。


処刑人一族であったサンソン家は、人々に忌み嫌われ、蔑まれ、差別の対象でした。街で処刑人を見かけると、人々は目を背け、身体が接触しないように身をかわしていました。死刑制度が存続する限り、誰かが刑を執行しなければなりません。死刑制度に賛成する人たちにとっては、死刑執行人は自分の考えを実行に移してくれている人達です。死刑判決に喝采する人が判決を執行する人に目を背けるというのは、ずいぶんと身勝手なことですけどね。


世間からのけ者にされてはいましたが、医者を副業にしていたこともあって、サンソン家は経済的にはかなり裕福で、広壮なお屋敷に住み、貴族並みの暮らしをしていました。

死刑執行人がなぜ医業を副業とするようになったかというと、「八つ裂きの刑」「車裂きの刑」「斬首刑」「絞首刑」などいろいろな刑を執行していたため、身体のどこをどうたたけばどうなるかという人体の生理的機能に詳しくなるからです。死体の引き取り手がいない場合は、死体を解剖して人体の構造について知悉するようになりました。解剖によって得られた知識は文書にしたためられ、子孫に伝えられました。


普通の医者が匙を投げた病人や怪我人を治癒させるなど、医者としてサンソン家当主たちの評判は非常によく、一般庶民ばかりでなく貴族、さらには宮廷貴族たちも治療を受けにきました。待合室、診察室、薬剤調合室なども完備していました。


医業がもっとも繁盛した三代目の頃は、死刑執行人として年棒1万6000リーヴルのほかに、医業だけで年に六万リーヴルほどの収入がありました。当時の男子工場労働者の年収が400から700リーヴル程度だったから、どれほどの高収入おわかりでしょう。もっとも、養うべき人間の数も多くありましたけど。助手をはじめとする雇い人が30人ぐらいはいただろうし、家族の他に退職した親戚筋の元死刑執行人などの食客がいました。


公務とはいえ、同法を手にかけることに内心の嫌悪感を禁じえなかった歴代当主たちにとって、医業で人の命を救うことは精神的にも大きな救いになっていたことでしょう。金持ちからは高額の報酬を受け取るが貧しい人たちからは一銭も受け取らなかったというのが、サンソン家の伝統だったそうです。


サンソン家の人々は、界隈の貧しい人たちに定期的にパンを配ることもしていました。パリの死刑執行人は「ムッシュード・パリ」と呼ばれていましたが、サンソン家の世話になった人たちは道で「ムッシュー・ド・パリ」に圧と、帽子を取って丁寧に挨拶をしていたと言われています。

シャルル-アンリ・サンソンの日記から分かる苦悩

シャルル-アンリは、脳卒中で倒れた父親の跡を継いで、15歳のときに、死刑執行人になったと言われています。1754年のことで、このころは、やがて世の中がひっくり返るような大革命が起ころうとも誰もおもっていなかったような時代です。


シャルル-アンリ・サンソンはとても信仰心の厚いクリスチャンであったとも言われています。彼にとって死刑執行人という職業は悩みの多いものだったと日記に残していますが、先祖代々の稼業ともあれば、仕方がな買ったのかもしれません。自分の仕事は犯罪人を罰する正義の行為であると何度も言い聞かせながら、家業を続けていたことが残っている日記を読んでも伺えます。


フランス革命が勃発したのは、シャルル-アンリが50歳のときでした。革命に遭遇したことによって、シャルル-アンリの運命が大きく変わりました。まず、ギロチンの登場です。


ギロチンが登場したことで、処刑の在り方が変わりました。そして、1793年1月、国王ルイ十六世の処刑に直面して、自分の仕事の正当性に対する確信が根底から揺らいでしまいました。シャルル-アンリは立憲君主主義としてルイ十六世を深く敬愛してもいましたが、国王と二度も会って親しく話をしたことがあり、個人的にもルイ十六世のことが大好きでした。そもそも、死刑執行人はルイ十六世の名によって任命されるもので、シャルル-アンリの叙任状にはルイ十六世の署名がありました。


シャルル-アンリにとって、ルイ十六世は断じて犯罪人ではありませんでした。ルイ十六世の処刑前夜、何とか処刑を回避する方法はない物かと煩悶に煩悶を重ね、一睡もできなかったそうです。どこかに逃げることも考えたそうでしたが、それは思いとどまったそうです。


王党派がルイ十六世の救出を計画しているという噂に望みを託し、いざとなったら自分もそれに一躍買う覚悟で処刑場に臨んだのですが、それもむなしく、シャルル-アンリの責任においてルイ十六世の処刑が執行されました。


シャルル-アンリの心は乱れに乱れ、神に救いを求めるほかはなかったのでしょうか。


隠れ家に身をひそめる非宣誓派(革命に忠誠を誓うことを拒否した僧侶たちのこと)の司祭を訪ねあて、国王のためにミサをあげてもらうことで、少しは気持ちを静めることができました。非宣誓派の司祭に接触するだけでも反革命的犯罪とされたこの時期、ことが明るみに出れば死刑は免れなかったのですが、そうせずにはいられませんでした。


シャルル-アンリの試練はこれだけでは終わらなかったのです。やがて、恐怖政治がさらにシャルル-アンリに追い打ちをかけることになりました。罪のない人を大勢処刑するようになって神経がまいり、シャルル-アンリは幻覚・幻聴・耳鳴りに苦しめられ、手が震えて止まらなくなります。それでも、家業を中断したのでは践祚を裏切ることになると、なお処刑場に出向くのでした。

シャルル-アンリは、ついに死刑制度の廃止を願うようになりました。1795年に、国会は「和平達成時に死刑制度を廃止」といったんは決議するのでしたが、いつの間にかうやむやになり、サンソン存命中に死刑制度が廃止されることはありませんでした。(フランスで実際に死刑制度が廃止されるのは1981年)

シャルル-アンリは、その後も毎年、国王の命日に贖罪のミサをあげ続けましたが、シャルル-アンリの死後は息子アンリに引き継がれます。サンソン家は結局、1840年にアンリが死亡するまで、47年間にわたってルイ16世のために贖罪のミサをあげ続けるのでした。

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