「徳川四天王」井伊直政、本多忠勝などの子孫は明治時代以降も受け継がれていた

井伊直弼の最期になった桜田門

徳川四天王」は戦国時代が終わった後も受け継がれていた

主に武力と忠義をもって、徳川家康を支え、その天下取りに比類なき貢献を果たした酒井忠次本多忠勝榊原康政井伊直政。泰平の世が訪れた後、彼ら「徳川四天王」とその家系はどうなったのでしょうか?

大老職を輩出し続けた井伊家

4人のうちもっとも最期が知られているのは井伊直政でしょうね。四天王の最年少でありながら、知勇を兼ね備え、晩年の家康からもっとも信頼を受けた直政は、1600年の関ケ原の戦いで島津軍追撃中に銃撃を受け負傷し、その傷がもとで2年後に没しました。

上野国箕輪12万石の時代は善政を敷いて領民には慕われていましたが、その反面、部下の些細なミスも許さず盛んに手討ちにしたため、“人斬り兵部”と恐れられていたといいます。

直政没後は、大坂の陣で活躍した次男・直孝が譜代重鎮となり、3代将軍・家光の時代に彦根藩30万石を領有しました。

また、井伊家は以降も譜代筆頭として、幕府運営においても重責を担い、大老過半数を排出しています。そのうち最後の大老となったのが、13代彦根藩主の井伊直弼でした。黒船来航の混乱期に幕政の最高責任者となった直弼は開国を決断、その開国は時代に即したものでしたが、性急な強権政治が災いして江戸城桜田門外で暗殺されました。

その後、井伊家は1866年の第二次長州征伐に参戦しますが、すでに時代は変わっていました。戦国の世では「井伊家の赤備え」と恐れられた彦根藩の軍装は夜間でも目立つ格好の標的となり、長州軍の洋式銃の前に大敗しました。

戊辰戦争の緒戦である鳥羽・伏見の戦いでは彦根藩は当初、旧幕府軍の先鋒を務めていましたが、戦闘中に赤備えの甲冑を脱ぎ捨てて徳川家と決別。新政府軍に寝返っています。こうして新政府軍として戦功を立てた井伊家は、維新後に伯爵となって華族に列しました。

酒井・本多・榊原家も明治まで存続しました

家康の父・広忠の時代から徳川家(当時は松平家)に仕え、桶狭間の戦いの後に家老となった酒井忠次は、同じく徳川家の重臣であった石川数正が豊臣家に出奔して以降は筆頭家老の地位を占めました。

しかし、豊臣秀吉の天下一前にすでに隠居していた忠次は、家康の天下を見ることなく、1596年に病没。酒井家は嫡男の家継が継ぎましたが、1590年の小田原征伐後に家康から与えられたのは、下総国臼井の3万7000石に過ぎませんでした。


“家康は第一の功臣”と称えられた忠次の家系の恥じない石高を得るのは、家次の子・忠勝の時代です。出羽国庄内藩15万石を領し、明治時代まで存続します。戊辰戦争では、会津藩とともに旧幕府軍の中心勢力となった庄内藩は最強の呼び声が高く、無敗のまま終戦を迎えています。


猛将として知られる本多忠勝榊原康政は、それぞれ伊勢桑名と上野舘林に10万石を与えられました。そして、両者とも政治の中枢から距離を置き、領地で静かに隠居生活を送りました。


「家康に過ぎたるもの」と称された本多忠勝は隠居後も武芸を欠かすことはなかったのですが、体力の衰えを実感し、愛用の長槍・蜻蛉切を短く詰めたと言われています。1609年に嫡男・忠政に家督を譲ると、翌年に病没。。本多家は、分家や移封を繰り返しながら、三河岡崎藩5万石で明治に至りました。


康政は関ケ原の戦い後に老中となりましたが、「老臣権を争う亡国の兆しなり」といい、自ら一線を退いたと言います。1606年に館林で病没。榊原家は江戸時代に入ると無嗣断絶や放蕩によって2度も改易の危機に瀕しましたが、藩祖・康政の功績によって辛うじて存続を許され、最終的には越後高田藩15万石で江戸時代を生き抜きました。


徳川政権が樹立した関ケ原の戦い後、時代はすでに戦場での働きにより能吏を求めていたのか、徳川四天王の待遇も幾分の差があったようにも思われます。しかし、他の譜代大名のように徳川四天王の家系は一つも改易されることはなく、幕末まで存続しました。4人の藩祖たちの偉大さを物語っていると言えるでしょう。