織田信長よりも先に比叡山を焼き払った“クジ運の強い”将軍・足利義教

兵庫県加東市安国寺にある義教の首塚とされる塔

室町幕府でもくじ引きで決まった“足利義教”の恐怖政治

室町幕府獏に府は歴代15人の将軍がいたが、「くじ引き」という前代未聞の選出方法で6代将軍に就いたのが足利義教です。


1425年に5代将軍・義量が19歳の若さで夭折すると、幕府は将軍空位の時代が続きました。そこで、「神意」として石清水八幡宮のくじ引きを行い、4人の後継候補から選ばれたのが、3代将軍の義満の五男で天台宗に入っていた義圓でした。1429年、義圓は義教と改名し、室町幕府6代将軍となりました。


将軍となった義教は、父・義満にならい、失墜した幕府権威の回復と将軍による専制政治を志向しました。そして彼が選んだ政治手法は、強引かつ峻厳な「恐怖政治」でした。

義教は守護大名家督争いに積極的に介入し、自分の息がかかった者を当主に据えて支配力を強めました。自分に刃向かう者が入れば、容赦なく追放、討伐し、刺客を差し向けて暗殺することもしばしばありました。


特に、1438年の「永享の乱」では、幕府に反抗的だった鎌倉公方足利持氏を攻めて自殺に追い込み、さらにその後、逃亡していた持氏の遺児らによる反乱を平定。捕らえた遺児らを護送中に暗殺しました。


幕府四職の一色義貫も、義教と対立すると幕政から遠ざけられ、最後は刺客を差し向けられて謀殺されました。


義教の介入は公家や宗教勢力にも及びました。当時強大な独立勢力だった比叡山延暦寺を、「義教に呪詛を仕掛けた」という理由で攻めました。義教は将軍になる前は天台宗の僧侶であり、しかも天台座主という比叡山延暦寺のトップの立場でした。


そのため延暦寺の権威をよく分かっており、最初は取り込みを図ったが、それがならないと比叡山を兵で囲んだのでした。そして、いったん和睦したと見せかけ、その和議の席で代表の4人の僧侶を殺害しました。


これを聞いた延暦寺の僧侶は激昂し、抗議のため延暦寺総本堂に火をかけ、24人が焼身自殺しました。こうして謀略によって比叡山の反乱分子を一掃した義教は、新たに自信で僧侶を派遣し、延暦寺の再建を命じたのでした。


権力を手にしてからの義教は神経質で、苛烈な性格だったと言われています。義教が参内したときに微笑んだというだけで公卿の所領を没収したり、用件の取り次ぎ態度が少し悪いと侍女を激しく殴ったり、「料理が不味い」といって料理人を処刑するなど、怒ると見境がなかったと伝わっています。


武家や庶民のみならず皇族や公家、新刊まで激しく処断された義教の治世を、後続の伏見宮貞成親王は、『看聞日記』に「万人恐怖シ、言フ莫レ、言フ莫レ」と書き残しています。

初めて暗殺された将軍・義教その後の室町幕府がグダグダに・・・

だが、1441年、そんな義教に思わぬ最期が訪れました。


反抗的な守護大名の粛清が着々と進められるなか、京都では「今度は赤松満祐が将軍に討たれる」という流言が飛び交いました。満祐は播磨・備前・美作の三か国を治める守護大名でしたが、義教が満祐の弟・義雅の所領を没収し、寵愛していた赤松貞村に与えるなどしていたため、身の危険を感じていたとされます。満祐が先手を打つ格好でした。


満祐はこの年に起きた「結城合戦」の戦勝祝いと称し、義教を赤松邸に招待しました。わずかな供を連れて義教が宴に臨席し、酒杯が回され能を楽しんでいたところ、赤松きっての武士である安積行秀が乱入してたちまち義教の首を刎ねました。


将軍暗殺という目的を達成した満祐は他の者に害を加える意思はなく、事態はまもなく収まりを見せます。しかし、義教の亡骸は誰も引き取ろうとはせず、首のない遺体は赤松邸にしばしば放置されました。この将軍暗殺事件を「嘉吉の変」と言います。