金閣寺を建てられる程、財産に恵まれいない室町幕府、室町幕府の経済破綻が戦国時代の始まり

室町時代を代表する金箔張りの豪華な建築物、その裏では・・・

予算が少ない室町幕府、酒屋と金貸しに頼る

南北朝時代は、後醍醐天皇の死とともに事実上、終焉しました。実質的には10年にも満たない期間です。しかし、この南北朝時代は、室町幕府の財政に大きな影響をもたらすことになり、ひいては戦国時代到来の遠因になってしまいました。

というのはこの南北朝時代室町幕府の中で揉め事が起きると、すぐに反対勢力が南朝に加担します。こういった構造多発したのです。そのため、室町幕府は自陣の勢力を少しでも増やすために、自分の直轄領を削って武家を引きつけようとしてきました。その結果、直轄領が少なくなっていたのです。

『直轄領が少ない』とは裏を返せば『直属の兵が少ない』ということです。直轄領が少なければ養える御家人の数も必然的に減っていくわけです。

幕府の直属の兵が少なければ、総体的に管領や守護の発言力が強くなっていきます。しかも、室町幕府の時代には日本中が荘園化していて、公領が非常に少なくなっていました。


鎌倉幕府は将軍の家来である御家人を要衝の地の告示に据えることで税収を賄っていましたが、それは、公領が残っていたからこそできたものです。しかし、室町時代になると武家たちに侵攻され、香料である「国衙領」はごくわずかしか残っていませんでした。


国司という職も形骸化していたため、室町幕府御家人国司にするのではなく、幕府の直轄領を経営することで財源を賄わなければなりませんでした。この室町幕府の直轄領は形式的には荘園でしたが、「公方御料所」と言われていました。


とはいえ、この公方御料所も十分にあったわけではないとされます。明確な広さは分かっていませんが、鎌倉幕府のものよりは、かなり少なかったと見られています。


室町幕府の将軍家の費用は、主に「酒屋土倉役」からの収入で賄っていたと言われています。公方御料所からの収入はあまりあてにされていなかったようです。


「酒屋土倉役」というのは、「酒屋」と「金貸」の業者たちのことです。中世から近世にかけて、商業の主役は酒屋でした。当時から酒には高い需要があったのです。


しかも酒造りには大規模な設備や大量の材料が必要であり、金持ちでなければできないものでした。そして金持ちは金貸しをすることが多いのです。それは昔も今も変わりないですねぇ。そのため、酒屋と金貸は兼業されていたことが多く、ほぼ同一視されていました。つまり、酒屋と金貸は、金持ちの集まりでした。


財政基盤の弱かった室町幕府は、ここに目をつけました。三代将軍足利義満が、1393年、「酒屋土倉を保護する」という名目で、酒屋土倉という税を徴収することにしました。

金貸に頼ると、一揆が起きて、徳政令を出して、財政悪化の悪循環

なんとか財政基盤を立て直そうとした収入源の工夫をした室町ばくふでしたが、その足腰はガクガクなまま非常に不安定な状態でした。


そもそも酒屋や土倉に頼る財政というのは、非常に危険なものです。酒屋、金貸は民衆の生活に密接に関わっているからです。


当時の金貸は利息が非常に高く設定されていました。そのため、庶民の生活を苦しめることになり、土一揆が頻発している時代でした。


例えば、1428年には「正長の土一揆」という、かつてない規模の一揆がおきました。近江の「馬貸」(運送御者)たちが興した一揆に端を発し、全国に波及したこの一揆は、金貸への借金の帳消しを求めたものでした。一揆の集団は、各地の金貸を襲い、借用書を奪い取りました。これにより、全国の金貸が大きな影響を受けました。


これ以外にも、室町時代にはたびたび土一揆が頻発したのです。


そのため室町幕府はたびたび「徳政令」を出さざるを得ませんでした。徳政令とは、簡単に言えば、借金をチャラにするという命令でした。お金を借りている庶民は助かりますが、金貸たちは大きなダメージを受けました。必然的に、金貸に依存している室町幕府にとっても大きな打撃になりました。


室町幕府の財政に関する資料はあまり残されていないそうですが、具体的にどのくらい影響を受けていたのかは分かりませんが、徳政令を出すたびに、室町幕府の財政が悪化していたのは間違いありません。

足利義満、財源確保のために屈辱的な条件を飲む

しかも、酒屋土倉役だけでも幕府の財政は不足していました。


しかし、相関単位直轄領を増やすわけにはいきませんし、良民に新しい税を課すことも難しくなっていました。そこで、三代将軍・足利義満は、新たな財源を海外に求めました。それが「日明貿易」でした。


古来、日本では中国との貿易は大きな利益が得られるものでした。しかし、当時の明は民間貿易を禁止し、国交のある国と「朝貢貿易」だけを行っていました。


朝貢貿易は、「中国の皇帝に対して周辺国が形式的な臣従をして、貢物を差し出し、皇帝からその返礼の品物が与えられる」という形をとります。これだけ聞くと中国の皇帝の尊大さが感じられるかもしれませんが、むしろ周辺国のほうに大きなメリットがある貿易でした。


というのも中国は「皇帝の権威を示す」ために、周辺国からもたらされる貢物に対して、その何倍もの価値のある返礼をするのが伝統になっていたからです。


日本においては朝貢貿易のメリットはさらに大きいのです。当時の明の品物は日本に持ってくるだけでも価値は何倍にも跳ね上がったらでした。差し出した物の何倍ものお返しがもらえるのであれば、その利益はかなり大きいのです。室町幕府にとってはまたとない財源になりました。


しかし、明と貿易をするためには、明から冊封を受けなければなりませんでした。冊封とは、明の皇帝から「お前をその国の王とする」という任命を受けることでした。つまり、足利将軍が、明の皇帝から「お前を日本の国王としてやる」という任命を受けなくてはなりませんでした。


これは、世界の中心は中国であり、各地の王は中国の皇帝が任命する、という「中華思想」からくる発想でした。もちろんそれは、形式的なものに過ぎませんでしたが、冊封を受ける側としては屈辱的ではあります。


だから、奈良時代平安時代の朝廷は、「朝貢貿易はするけれども、冊封は受けない」といった微妙なラインを堅持していました。


ところが足利義満は、日明貿易を行うためにあっさり冊封を受け、明の皇帝から「日本国王」に任命されたのでした。

将軍よりも守護大名の方がお金を持っていた

足利将軍が行った貿易というと「勘合貿易」を思い浮かべる人も多いかもしれません。中学、高校の教科書には、必ず出てくる単語ですよね。


勘合貿易は勘合符を持った世紀の貿易船だけに貿易を許可した制度のことでした。海賊行為を繰り返してた倭寇対策のために作られていた制度でした。


明の皇帝から冊封を受けた足利将軍にも、勘合符が支給されました。支給枚数は、「明の皇帝一代につき100枚」と決まっていました。つまり、「明の皇帝の一代の中で、100隻分の日明貿易ができるというわけでした。ちなみにこの勘合符は、札というよりも、証文のようなものだったらしいです。証文には割印がしてあり、その正当性を証明していました。


日明貿易が儲けが大きいですが、それなりの元手がいりました。明まで遭難せずに辿り着くような船を派遣しなければならないし、船員の給料や食糧費もかかります。1434年ねンの遣明船の記録では、1隻を派遣するのに1,500貫文の経費が掛かっていました。船のチャーター費用が300貫文、船員の報酬が400貫文、食糧、薬、水などが500貫文でした。


もちろん皇帝に献上する品物や、輸出品を調達するコストもかかりました。それが1万貫文程度。なので、遣明船を1隻を用意するには、1万数千貫文かかったのでした。


これを現代の貨幣価値に換算するのは難しいですが、足軽一人の年収が1貫文前後だったので、これを仮に500万円として、1万数千貫文は約500億~600億円ということになり、かなりの高額だったと言われています。


日明貿易の当初、室町幕府は自ら遣明船を仕立てていましたが、室町時代も後半になると財政がますます苦しくなっていたので、遣明船を用意することができませんでした。


そのため、八代将軍足利義政の時代になると、幕府は勘合符を希望者にバラ売りすることになりました。


勘合府は1枚当たり300貫文が相場だったと言われています。室町幕府は、日明貿易を独占できるせっかくの特権を持っていながら、それを活かすための経済力さえなくなり、わずか300貫文と引き換えに勘合符を売っていたのです。


そして、幕府が勘合符をを売るということは、当然、それを購入していた者たちがいました。


勘合符を購入する者には、寺社の他、守護大名も含まれていました。守護大名大内氏や細川氏は、競って勘合符を手に入れようとしました。彼らには、日明貿易を仕立てるだけの経済力があったということになります。


つまり、守護大名の方が将軍よりもお金を持っていたことになりますね。それじゃあ将軍の求心力が弱まり、国も乱れるはずです。


応仁の乱が起こり、戦国時代が始まったのは、この八代将軍・義政の時代です。戦国時代は守護大名同士の権力争いが発端となっていますが、その根幹には、室町幕府財政破綻が端をなしているのです。

応仁の乱 - 戦国時代を生んだ大乱 (中公新書)

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マンガ 応仁の乱

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