井伊家の復興の活躍は直虎の次の城主・井伊直政

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井伊家の転機でもあった徳川家康との出会い

1561年2月9日、井伊直政遠江の国井伊谷祝田村で生まれました。父は井伊直親、母は奥山親朝の娘です。虎のように強く、松のように末永く栄えることを願い、幼名を虎松と名づけられました。

大河「おんな城主 直虎」の時代背景初期、虎松が生まれた当時、井伊家は受難の時代を迎えていました。虎松の祖父・直盛が前年の桶狭間の戦いで戦死したのを始め、井伊家では虎松の父・直親や曾祖父・直平を相次いで亡くしていました。


その後、還俗した直虎が虎松の後見人となるも、主君・今川家との軋轢で井伊谷統治権を剥奪され、虎松と直虎は龍潭寺に身を寄せることになりました。直後、今川領は武田家と徳川家の侵攻にあい、井伊家の領国と家臣団は侵攻してきた徳川家の傘下に収められてしまいます。

こうした虎松は家臣団と領地を失いましたが、1575年に転機が訪れました。父の法要を機に寺を出ていた虎松は、と虎に付き添われて鷹狩に出ていた徳川家康に謁見。直親と親交があった家康に小姓として迎えられ、井伊家当主への復帰と旧領の回復を許されました。

数々の戦いで武功を立てて異例の早さで出世

家康の家臣となった虎松は、家康の幼名にちなんだ万千代の名を賜りました。翌年、万千代は武田軍との戦いで初陣を飾り、早くも戦功をあげたといいます。

織田信長が本能寺で倒れると、徳川家康甲斐国信濃国へ侵攻して旧武田領・武田家臣を吸収しました。

1582年、元服した万千代は直政と改名。武田領への侵攻の戦功で出世を重ねた直政はすでに2万石の俸禄を受けていました。猛将と名高い山県昌景など、打倒した武田家の旧臣を配下に加えられて徳川の一翼を担う存在になりました。

その後、直政は小牧・長久手の戦い小田原征伐でも活躍。昌景と同じく装備をすべて朱色に染めた赤備えを採用しました。井伊直政直属の「井伊の赤備え」が誕生し、敵対する武将からは恐れられる精鋭集団に成長しました。

直政自身も赤備えとともに刀槍を振るうことも好んだ勇将であり、その奮戦ぶりから、「井伊の赤鬼」と呼ばれるようになりました。豊臣秀吉小田原征伐に従軍したときには、直政は小田原城に夜戦を仕掛けて、豊臣方で唯一、城内に攻め込んだ武将として名を高めました。


この自身も戦場に向かうの性格が仇となり、関ケ原の戦いでは銃撃を受けてしまうこともあったそうです。


それでも、直政は徳川家の中で外様の扱い、しかも若くて出世したため直政を妬む者も多かったと言われています。


しかし、若き日の直政を諫めたという大久保忠世や、自身が賜った旧山県昌景の家臣を直政に浸けるよう進言した酒井忠次など、直政の後押しをした武将もしました。

家康の寵愛や直政自身の忠勤ぶりはもちろんですが、こうして直政を温かく見守る先輩武将だからこそ、直政は異例の出世を遂げたんだと思います。

交渉にも長けていた直政の政治力

直政は交渉にも手腕を発揮しました。元服した年の天正壬申午の乱では北条家との和睦を成立させ、2年後の小牧・長久手の戦いの後は家康と豊臣秀吉の関係修復に尽力しました。

1600年の関ケ原の戦いでも戦後処理にあたり、西軍の総大将・毛利輝元や島津家との交渉でも手腕を発揮したと言われています。

赤備えの鬼武者 井伊直政

赤備えの鬼武者 井伊直政