なぜ徳川家康は秀頼を執拗に追い詰めなければならなかったのか?

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関ケ原の戦い勝利した後も徹底的に豊臣を攻撃した徳川家康

関ケ原の戦いが終わった後になっても、徳川家康豊臣秀頼を執拗に追い詰めたことはよく知られた話ですね。関ケ原の戦いをきっかけに明らかに豊臣方には徳川家康に対抗できるだけの力は残っていなかったはずなのに・・・

方広寺の鐘名「国家安康」を捉えて@家康の滅びを祈念している」と難癖をつけたり、「大阪城の外堀を埋める」という約束で停戦したのに「内堀」まで埋めてしまったり・・・


手段を選ばず徹底的に豊臣家を滅ぼしてしまったのです。そうした数々の所業のために、家康は「悪役」や「悪タヌキ」など悪いイメージを付けられたとも言えます。大阪夏の陣真田丸など最近の家康については敵役になっていますよね。

それにしても、なぜ家康はこれほどまでに執拗に豊臣家を滅ぼそうとしてしまったのでしょうか?

関ケ原の戦いの後、豊臣秀頼は秀吉時代の蔵入地を大きく失って、65万石程度の大名にしか過ぎませんでした。石高だけを見れば、豊臣秀頼は家康を脅かすほどの地位にすらなかったわけです。また、豊臣の恩顧の大名たちのなかでも“豊臣離れ”の動きが進んでいました。豊臣家が力を失うのは、時間の問題とも言えました。

しかも、豊臣秀頼は家康にとって、孫娘の伴侶です。なのに家康はそれでも秀頼叩き、豊臣叩きの手を緩めませんでした。

大坂の経済力は家康にとって何よりの脅威だった

大きな理由の一つは「大坂」という土地が持つ、不気味な経済力にあると言えます。

実は、大阪というのは天下を治める上で、最も適した場所でした。

大阪城と言えば、豊臣秀吉というイメージが強いですが、実は秀吉が築城する前に織田信長がすでに大阪城の築城に取り掛かっていました。1580年、信長に追い詰められた石山本願寺は、朝廷が動かして、開場を条件に和睦しました。本願寺蓮如は、雑賀の鷺森御坊に移りました。信長は石山本願寺が開城や、3日間、昼夜を問わず焼き尽くしました。そして、跡地に巨大な城の建築を開始しました。

それが後に完成した大阪城の礎になるのです。

大阪城の総普請奉行を命じられたのは丹羽長秀です。丹羽長秀は、小牧山城岐阜城安土城も手掛けた名築城家です。1582年、織田信長が本能寺に倒れたとき、大阪城の築城はかなり進んでいたと言えます。そして、その建設途中の城を、さらにスケールアップして完成させたのが豊臣秀吉が築城した大阪城でした。

大坂は、淀川を伝えば、京都にすぐに出ることができる場所になります。また、瀬戸内海に面しているので、西日本全域に睨みを利かすこともできます。さらに、当時の日本最大の商都堺は目と鼻の先にありました。

しかも当時、堺は徐々に、商工業の主導権を大阪に握られつつありました。関ケ原の後、堺港は徳川幕府が管轄することになっていたのですが、以前の秀吉の施策により、堺や京都の商人たちが、大阪に移り住み始めていたのです。

また、堺は、大阪から目と鼻の先だったので、戦争になれば、大坂方は簡単にここを占領することができます。実際に、大坂冬の陣の直前、豊臣方から攻撃を受け、あっさり占領されてしまっています。

大坂は、堺を押さえるということは、日本の軍需物資の大半を押さえるということでもあります。南蛮船や明らか運ばれてくる武器や火薬、日本全国から集められる食糧などが、ここでせき止められることになります。信長が堺港を押さえたことで、武田信玄など東日本の武将たちが干上がってしまったように、家康も秀頼に干上がらされる恐れが出てきます。

また、家康の本拠地がある江戸と、大坂では経済力にまだまだ雲泥の差がありました。当時の江戸は、まだまだ片田舎に過ぎず、産業などは大坂に大きく後れを取っていました。

例えば、豊臣が滅んで100年後、江戸幕府は「享保の改革」を行いますが、この改革のテーマが一つが、「大坂経済圏からの自立」でした。江戸は日本の首都であったにもかかわらず、商工業は大坂経済圏に依存しきっていたのです。醤油の76%、繰綿にいたっては100%を大坂からの輸送に頼っていました。江戸人の生活のかなりの部分で、大坂なしではやっていけなかったことにあります。

江戸開闢から100年以上たっても、商工業においては大坂に大きく後れを取っていたのです。大坂冬の陣、夏の陣の頃はもっと大きな開きがあったことも簡単に想像できます。

その大坂に秀頼が居座り続けることは、徳川家康にっては「目の上の大きすぎるたんこぶ」でした。

家康としては、秀頼になんとしても大坂から動いて欲しかったのです。が、秀頼も頑固者で大坂の地からは離れようとはしなかったわけです。もし、秀頼が家康の命令通りに大坂を離れることがあったら、後の大坂冬の陣、夏の陣も起こることもなく、真田幸村のような英雄伝はなかったのかもしれませんね。

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