イギリス十七世紀の喧騒、ピューリタン革命のリーダー・クロムウェルも残虐な独裁者だった

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教科書では習わないピューリタン革命の真実

十七世紀は、イギリスの歴史の中でもとても騒々しい時代だと言われています。十七世紀のイギリスと言えば、ピューリタン革命に代表される革命期に当たります。十七世紀の100年の間で王政→共和制→王政と目まぐるしく変わりました。

ピューリタン革命とは、中学の時の教科書のイメージでは、それまでの絶対王政から共和制に移行した、君主つまり王以外の人間が民衆に政治が移った革命だと理解していましたが、実際のところ大きな勘違いをいていたなと思います。

ピューリタン革命の主導者であったクロムウェルは、民衆の代表として王から政権を奪い、民主化を進めた人物と勝手に思っていましたが、結局のところ残虐な独裁者だったのです・・・だから、結局ピューリタン革命後の共和制は長続きせず、15年程度で王政が復活することになりました。

ピューリタン革命前の王政は王の都合次第

1625年にジェームズ一世がなくなると、息子のチャールズ一世が即位しました。

チャールズ一世は、父親同様にスチュアート家の伝統ともいうべき王権神授説を奉じ、絶対主義君主として振舞おうとしました。また、彼は、英国国教会プロテスタントでありながら、フランスのカトリックの王女アンリエット・マリーと結婚、カルヴァン派とも争うことになります。

チャールズ一世は、対フランス・スペインの戦争に失敗し、議会は王に税金の徴収を認めましたが、一年限りの条件でした。怒った王は議会を解散し、反対者を投獄したり、強制ローンを課したり、やりたい放題でした。

さらに、戦費がかさむと王はやむを得ず議会を招集しますが、議会は1628年に「権利の請願」を提出、議会の同意のない課税や勝手な投獄を王に認めさせないことを主張しました。これは中級階層の「マグナ・カルタ」とも呼ばれる重要文章です。

しかし、ピューリタンの支配する議会と王は激しく対立し、ロンドン主教のウィリアム・ロードは王と組んでピューリタンを迫害します。このころ、王のごく身近な諮問機関である枢密院とは別に、大臣たちの集まりである「内閣評議会」が登場しました。

ロードは1633年にカンタベリ大主教になり、カトリック的な装飾や荘厳な儀式を導入しようと全小教区に委員を送ったため、ピューリタンらの非難を浴びます。

一方、チャールズ一世は、11年間も議会を開かず、忠誠心に厚い高位貴族=岸の奉仕義務に訴えたり、かつて王領だった荒地を開拓した者たちから罰金を徴収したりして、資金不足をしのぎました。

しかし、1635年、船舶税を海岸都市だけでなく内陸でも徴収しようとして一層の反発を浴び、やむなく1640年に議会を招集しましたが、王と議会の対立のためわずか3週間で解散されました。

イングランドに進軍し占領したスコットランド軍対策もあって、チャールズ一世は資金不足のために同年、再び議会を開催せざるを得なくなります。議会は1653年にまで続いたので、先の議会を「短期議会」と呼ぶのに対して、こちらは「長期議会」と称されています。

チャールズ一世は、3年ごとの議会開催を義務付けられ、議会の同意なく解散もできなくなりました。王領を侵略した土地所有者への罰金は不法とされ、船舶税も廃止されました。

ピューリタン革命

王の助言者ストラフォード伯の処刑や、議会が王に提出した国王大権まで制限しようとする急進的な抗議文たる「議会の大諫奏」の結果、国内全土が議会派と国王派に分裂して内戦になりました。

最初は国王派が優勢でしたが、鉄騎兵を率いたオリヴァー・クロムウェルが各地で国王軍を撃破すると形勢は逆転。チャールズ一世は、捕らえられて裁判にかけられ、斬首刑になりました。これが「ピューリタン革命」です。

クロムウェルによる共和制は独裁政治

1694年3月、王政と貴族院は廃止され、オリヴァー・クロムウェルの下、イギリス史上はじめて共和制になりました。チャールズ一世の息子、後のチャールズ二世はチャールズ一世と打って変わってスコットランドと盟約を結び建て直しを図りましたが、クロムウェルによって打倒され、逃亡しました。


議会派リーダーで護国卿になったクロムウェルは偏狭な原理主義者で、あらゆる娯楽を罪悪視して市民に禁じ、劇場も閉鎖、土曜の夜12時から月曜の午前1時まで、居酒屋への入場も禁止していました。「共和制」といっても、実際は軍事独裁のピューリタニズムの押し付けでしたが、クロムウェルは自分だけは王様気取りで、豪華な宮殿住まいを楽しんでいたと言われています。

1658年のクロムウェル死後、その息子は護国卿の職をすぐに辞し、1660年5月に辞し、結局、チャールズ一世の息子・チャールズ二世の王政復古に至りました。

国王を斬首したピューリタン革命は、「絶対主義を倒した市民革命」として評価されることがありますが、イギリス史最大の汚点とされることもあります。この革命は、こうした純粋主義、原理主義はイギリスには合わない、共和制はイギリスの政治体制として簡単に根付かないことが実証されたという意味でも大きな教訓となりました。

ところで、ピューリタン革命を経てもイングランドアイルランド植民地化の熱意は衰えないどころか、より一層熾烈になっていきました。クロムウェルは総督としてダブリンに赴任して残虐行為にふけり、住民60万人もが虐殺され、あるいは餓死したのです。

クロムウェルはまたイングランドへの忠誠者にシャノン川以東の肥沃な土地を与え、敵対する者らはシャノン川以西コノハタ地方の山間部にある痩せた土地へと追いやりました。さらに、アイルランド人の歴史の「記憶の抹殺」にも着手し、学校は閉鎖され、知識人、芸人、職人を追放ないし虐殺、焚書や作品破壊に邁進したのです。