世が世なら名君にもなり得たルイ十六世

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※ルイ十六世の肖像画

プルボン家5代目当主ルイ十六世

フランスの君主の家系は全部で4つあります。481年に王位についたクローヴィスを開祖とするメロヴィング家、751年に王位についたペパンを開祖とするカロリング家、987年に王位についたユーグ・カペー家、1804年に皇帝に即位するナポレオンを開祖とするボナパルト家の中の4つです。


1328年から1589年まで王位にあったヴァロワ家と1589年以降王位にあったブルボン家はともにカペー家の中の傍系で、王政廃止後にルイ十六世が『ルイ・カペー』と呼ばれるようになったのはこのためです。
フランス革命前の社会システムは、総称して「旧体制(アンシャーム・レジーム)」と呼ばれていますが、その根幹をなすのは絶対王政でありました。絶対王政は、ブルボン家三代目の国王、太陽王ルイ十四世の時代に完成の域に達しました。


『王権神授説』によって地上における神の代理人とされた国王が絶対的権限を持ち、何よりも『生まれ=血筋』が第一とされる身分社会でした。現在の我々の社会は三権分立に基づいていますが、絶対王政においては行政・立法・司法の権限も国王に集中していました。

国民は3つの身分に分けられ、第一身分が僧侶、第二身分が貴族、第三身分が一般庶民でした。第三身分が人口の98%を占めていました。僧侶が第一身分とはいっても、枢機卿大司教といった高位聖職者を除けば、そのほとんどが民間で暮らしていました。大部分の僧侶の境遇は第三身分に近いものでした。


1789年5月に開催される三部会では、第三身分に近い一般僧侶が第一身分が代表議員300人のうち208人を占めていて、このことが三部会全体の動向を左右することにもなりました。


実質的に社会を領導していたのは貴族階級であり、2%にも満たない人々が残りの98%の人々を支配してきたのでした、そして、第三身分が重税にあえいでいたのに対して、僧侶と貴族には免税特権が与えられていました。


ルイ十六世はブルボン家5代目の国王でした。ブルボン家としては、ルイ十四世からは2代後にあたりますが、世代的にはずいぶんと間が空いています。


ルイ十五世はルイ十四世の曽孫にあたり、ルイ十六世はルイ十五世の孫にあたります。間が抜けているのは、息子や孫が父親や祖父よりも先に死んでしまったからです。


太陽光ルイ十四世は結構ずくめの国王でした。まず、ルイ十四世は、時代に恵まれた王でした。国王を頂点に社会が整然と階層化された絶対王政の最盛期、いかなる目立った問題も存在しないとされた社会に君臨することができました。


静的な時代であり、「ヴェルサイユ庭園の噴水水でさえも止まっているように見えた」と言われていました。フランスはヨーロッパ一の強国であり、文学・絵画・建築などヴェルサイユ宮殿は他の国々の君主たちを羨ましがらせ、ヨーロッパ各地にヴェルサイユを模倣した宮殿が建てられました。


ルイ十四世には常に、選手による栄光、文化の輝き国力の強さと言う後光が差していました。太陽のように光り輝く王様と言われたルイ十四世は、「朕は国家なり」と豪語していました。


女性たちからは、優雅さに溢れる素敵な人、神にもまごう地上最高の男性と思われていました。ルイ十四世は選りすぐりの美女たちに取り囲まれながら、偉大な国王として生涯を終えることができました。


ルイ十五世は、政務はそっちのけ、ほとんど女性専門に生きて、60人以上の私生児を残した国王でしたが、彼の時代にも、絶対王政の屋台骨はまだ持ちこたえていました。


ルイ十六世の時代に革命が勃発することになりますが、これはそれまでの絶対王政の月釜行ってきた結果である。

世が世ならルイ十六世も名君になれた

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革命の困難をうまく処理できなかったということで、ルイ十六世は無能にして鈍重な国王ということにされてきましたが、どんなに優れた君主でも、フランス革命の荒波乗り越えるのは至難の業に違いありません。


革命はいつか起こるべきものであり、ルイ十六世は、不運にも、たまたま革命の時期に遭遇したに過ぎないといっても過言ではありません。革命でルイ十六世が数々の失策犯したのは事実ですが、フランスではルイ十六世についての再評価の動きが進んでいます。


それなのに、日本で相も変わらぬイメージが大手を振って歩いているのは実に嘆かわしいことですねルイ十六世は世が世なら名君にもなり得た国王だったと思います。


こう言ったからといって、すぐにルイ十六世のイメージが正されているととは私は思っていません。一度、定着したイメージを覆すのは非常に難しいですね。


ルイ十六世は1754年8月23日にヴェルサイユで生まれました。したがって、フランス革命が勃発した時、35歳でした。ルイ十六世はルイ十五世の長男ルイ・フェルディナンの三男でした。

フランスでは王位は、長男から長男へと受け継がれる決まりが厳密に守られるので、2人の兄のいずれかが1人でも健在であれば、彼が王位になることはありませんでした。


次兄が死亡したのはルイ十六世が生まれる前のことでしたが、3つ年上の長男とは一緒に遊びながら育ちました。長男は利発活発で、ルイ十六世にとっても実に頼もしい兄でした。大好きで尊敬をしていた兄が10歳で病死したことが、彼の心に暗い影を落としました。


両親が兄に大きな期待をかけていたことがよく分かっていたから、兄の死が悲しかっただけでなく、子供心に後ろめたさのようなものを感じていたのではないでしょうか。兄の代わりに自分が死ぬべきではなかったか。父親が1765年36歳と言う若さで病死ししたため、ルイ十六世は11歳で王太子になりました。


王太子は見た目があまりぱっとしませんでした。何か言われて即座に当意即妙な答えをするのではなく、言われたことについてじっくりと考え込むような子供でした。あまりしゃべらないし、動作もキビキビとした方ではなかったので、周囲の大人たちはこの子は少し頭が弱いのではと思ってしまうような子供でした。

しかし、家庭教師たちは、寡黙で大人しい王太子が非常に飲み込みの早い少年であることを気づいていました。それでも、気の利いた会話ができるわけでもなく、ダンスを優雅に踊っているわけではありませんでした。感受性が強く、頭の中は活発に動いているのですが、軽薄な宮廷人にそれが全くわからない、そのような少年でした。


ブルボン家ハプスブルク家は長い間敵対関係にありましたが、オーストリアの女帝マリア・テレジアからの働きかけで、外交政策の大転換が図られることになりました。その具体的成果が、ルイ十六世とマリー・アントワネットとの結婚でした。ルイ十六世はまだ王太子で15歳、マリー・アントワネットは14歳でした。

錠前作りといった王家の人間らしからぬ趣味を持ち、どことなくぼーっとした感じの王太子は、派手で活発な性格のマリー・アントワネットにとって、少女が夢見る白馬の王子様ではありませんでした。


優美な遊びの世界に浸っていった妻と真面目一方の夫と言うわけで、2人の結婚には最初から、今で言う性格の不一致がありました。その上、結婚が7年間成長せず、マリー・アントワネットの兄がフランスにやってきて手術を受ける様に直々にルイ十六世を説得して、一見落着と言う経緯がありました。

マリー・アントワネットが、夜な夜な、貴公子たちを引き連れて遊びまわるようになっていったのはこのためとも言われていますが、結婚した時、2人ともまだ子供と言っていい年齢だったと言うことも考慮されるべきでしょう。今の日本で言えば中学3年生と年生なのです。


それでも輿入れをした当初は愛くるしい王太子妃として国中から大歓迎を受けたマリー・アントワネットは、遊び好きで浪費家の女として評判ががっくりと落とすことになりました。手術の甲斐があって、やがて女の子と男の子2人ずつの子宝に恵まれ、マリー・アントワネットもずっと落ち着いた生活を送るようになりましたが、評判が好転することがありませんでした。


1774年5月、祖父ルイ十五世が死亡してルイ十六世は国王に即位しましたが、まだこのとき19歳、新王妃マリー・アントワネットは18歳でした。2人はあまりにも若くして重責を担うことになっていたのに不安を感じ、抱き合って泣いていたと日記には書かれていました。『神様私たちを守ってください、保護してください。私たちはあまりにも若くして国を統治することになってしまいました。』


しかし、ルイ十五世の治世は、娼婦出身の女性が公式寵姫として宮殿のトップに立ったことによく象徴されるように非常に乱れたものでした。


ルイ十五世の治世にうんざりしていたフランスの人々は若き国王ルイ十六世の作品を大歓迎し、その業務にはブルボン家の開祖アンリ4世以来と言われることでした。そして、ルイ十六世は国民の期待によく応えていました。

革命前の優れたルイ十六世の治世

革命期の対応のまずさが強調されるあまり、革命前15年間のルイ十六世の優れた知性が無視されてきましたが、これを正当に評価しておく必要があります。革命期の無様な失態を論うだけではルイ十六世の人間像を正しく把握できないと思います。


独立戦争に直面したアメリカを積極的に援助したことは、財政をさらに悪化させた面もありますが、時代の要請に応えた外交政策としてもっと評価されるべきだと思うのです。イギリスという専制から植民地アメリカが自由と独立を勝ち取ろうとした戦いだから、啓蒙主義の時代的流れに沿っていました。今日のアメリカがあるのも、ルイ十六世のおかげと言ってもいいかもしれませんね。


内政面においても、1787年の間によりによってプロテスタントユダヤ教徒など、カトリック教徒以外のものにも戸籍上の身分を認めました。1685年に太陽王ルイ十四世がナントの勅令を廃止し、商工業になっていたプロテスタントの国外大量移住を招いて国を疲弊させた失策を100年ぶりに正したものでした。この政策は、信教の中にもつながる先進的なものでした。


フランスは伝統的に、陸軍が強かったのですが、海に面している部分が少ないのか海軍が弱かったのです。ルイ十六世は、自国の軍力を正確に分析し、海軍改革にも着手していました。海軍組織を改変し、防波堤を築いてシェルブール軍港を開設し、ブレスト、ロシュフォールロリアントゥーロンに乾ドックを建設しました。


フランス革命史』の中でミシュレは、「力強く、生命力に溢れ、赤と金の輝かしい海軍元帥の軍服に身を包んだ」若き日のルイ十六世がシェルブール軍港を訪れ、「フランスが大洋を打ち負かした高名の防波堤」を視察する様子を描いています。ルイ十六世の海軍についての知識には、海軍の幹部たちも舌を巻いたと言われています。


また、ルイ十六世は刑罰の人道主義化も推進していました。裁判の一環として行われてきた拷問を二度の法令によって全面的に禁止し、死刑に先立って執行されていた手首切断なの刑といった残虐なだけの刑はルイ十六世が治世している間には行われなくなりました。死刑判決自体も、ルイ十六世が即位している間は、減少しました。


ルイ十六世には確かに器用で優柔不断なところがありましたが、明晰な頭脳の持ち主であり、同時代のヨーロッパの君主たちの中でも最も教養の溢れた君主でした。地理、歴史、精密科学に精通し、外国語も数ヶ国語話せました。なにしろ、イギリスの哲学者ヒュームの著作を子供の頃から原書で読んでいたほどです。ヒュームは1763年にヴェルサイユの宮廷を訪れましたが、この時、すでにその著作に親しんでいた9歳のルイ十六世は讃嘆の念を込めた大歓迎の辞を述べていました。


狩猟とと錠前作りがルイ十六世の二大趣味でしたが、この錠前作りの趣味にしても、いい年をして王様が工房で錠前作りに熱中している姿はあまりかっこいいものではありませんが、当時の精密科学に対する関心の一環であって、決して伊達だけではありませんでした。

ギロチンの斜めの刃を提唱したのはルイ十六世でありますが、精密科学について造詣が深く、金属工作が得意だったルイ十六世には、斜めの刃ではないとうまくいかないだろうと分かったのでした。
革命の嵐が吹き荒れるまでは、ルイ十六世は国民にも絶大な人気がありました。このまま平安の夜が続いていれば、啓蒙主義の時代にふさわしい進歩主義的な善政を布いた国王として歴史に名を残すことになっていたのだと思います。



ルイ十六世は一人も愛人も持たない国王

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ルイ十六世は妻のマリー・アントワネット以外の女性に興味を示さず、ただの1人ない愛人も持ちませんでした。これはフランス歴代国王の中で前代未聞の類に属しました。また当時のヨーロッパ君主の中でも例外的存在でした。


フランスの宮廷には日本や中国のような後宮や大奥はありませんでした。後宮や大奥には、正室に子供ができなかった場合に側室に世継ぎを確保する意味合いもありました。しかし、フランスの場合は、キリスト教の教えにより、神の前において正式に結ばれた女性、すなわち王妃の子供にしか王位継承権が認められていなかったから、後宮を設ける大義名分がありませんでした。


それに、女性尊重の「ギャラントリー」の伝統から行っても、本人の意思を無視して一方的に女性を召し上げ、大勢の女性をハーレムに囲っておくというのは、社会的にもなじみませんでした。


その代わり「公式寵姫」とといった独特な制度があり、公式の愛人を一時的に1人だけ持っていっていいことになっていました。「公式寵姫」は、日陰の存在が全くありません。文字通り公式の存在であって、外国大使を引見し、宮廷舞踏会や宴会を主催しました。


公式寵姫は美貌と肉体と頭脳を武器にして国王の他の愛人たちとの熾烈な戦いを勝ち抜いて宮廷のトップスターの座を射止めた女性なのだから、普通は、名門王家のお姫様という「血統」だけが売り物の王妃とは容貌・才覚とも寵姫に太刀打ちできるはずがなく、寵姫の影に隠れるような地味な存在でしかありませんでした。席次はもちろん王妃の方が上で、時々入れ替わる寵姫と違って王妃は永遠に安泰の身分でもありますが、宮殿の事実上の女主人は公式寵姫であり、王妃を凌ぐ勢いを見せることが多くありました。


しかし、ルイ十六世は1人の愛人を持たなかったのだから、当然公式寵姫もいませんでした。このため、王妃マリー・アントワネットが女主人として宮廷を華やかに盛り上げる役割を担うことになりました。


マリー・アントワネットが他の歴代王妃と違って非常に目立つ王妃になったのには、こうした事情もありました。実際、ルイ十四世の公式寵姫であったモンテスバン夫人やルイ十五世の公式寵姫であったポンパドゥール夫人とデュ・バリー夫人は知っている人でも、ルイ十四世世とルイ十五世の王妃の名前をは浮かんでこないのではないでしょうか?


これで本来あるべき正しい状態になったように見えますが、寵姫を持たないことには不都合な面もありました。派手で華やかな公式寵姫がいれば、世間の目はこの寵姫の方に集中し、宮廷で何かスキャンダルが起こった場合でも寵姫の影に隠れる王妃にはスキャンダルから守られたのです。


つまり、公式寵姫は、王妃を世間の荒波から守る防波堤の役割も果たしていたのでした。ところが、ルイ十六世には公式寵姫がいなかったため、王妃マリー・アントワネットが世間の荒波をもろにかぶることになるのでした。


その最たるものが1785年に起きた「首飾り事件」です。540個のダイヤからなる、価格160万リーヴル(現在の日本円にして160億円程度)の首飾りをめぐる詐欺事件でした。


フランス王姫マリー・アントワネットが詐欺事件に関与したかのような印象残したこの事件は、王家の評判を抱く傷つけ、王家の威信を失墜させました。革命期の人々にも首飾り事件が革命の予兆になったという意識はあり、革命初期の指導者ミラボーがこの事件は『大革命の序曲』だったと位置づけています。


この『首飾り事件』でも、ルイ十六世に公式寵姫がいれば、事件に巻き込まれるのは寵姫であって、王妃マリー・アントワネットは向無傷に済んだはずでした。


非常に目立つ王妃マリー・アントワネットは、何かにつけ、槍玉に挙げられました。『赤字夫人」と呼ばれ、彼女が贅沢放題したからフランスの財政が破綻したかのように言われましたが、国の財政規模から見れば、彼女の浪費など、たかが知れていました。数字がはっきりと残っている1788年度の場合で見ても、王室及び特権貴族用の出費は3600円リーヴルで、これは全歳出の6%程度にすぎず、マリー・アントワネットが使ったのはさらにこの何分の一でした。


この程度の金で国がひっくり返る事はありません。例えばプチ・トリアノンの建設費用165万リーヴルはたしかに大金ですが、1788年度の赤字額は1億2,600万リーヴルと言う巨額なものであり、とてもマリー・アントワネット1人でどうこうと言う額ではありませんでした。


それに、宮殿のトップに立つ女性はきらびやかに光り輝く存在でなければならないというのはフランスの伝統でもあり、公式寵姫達もずいぶん贅沢な暮らしをしていました。目もくらむような高価な装いおいで現れ、外国大使たちに「やはり、フランスがすごい」と思わせるようでないと国の威信にも関わります。「首飾り事件」の原因になったら首飾りにも、もとはと言えば、デュ・バリー夫人のために発注されたものでした。


こうした奢侈贅沢は文化の一翼を担ってきたものです。プチ・トリアノンも今は十八世紀に流行した田園趣味を伝える貴重な歴史遺産になっています。ただ、マリー・アントワネットはあまりにも無警戒に真っ正直ににお金を使いすぎました。当時の男子工場労働者の年収が400から700リーヴルだったと言うのに、お気に入りのポリニャック夫人一族には、50万リーヴルもあげていたとなれば、これは恨まれて仕方がないのかもしれません


自分で金を使って物を買ったことがないのだから、これだけの金があればどれだけの買い物ができるかと言うリアリティーはなく、金は彼女にとってただの数字でしかなかったからかしれません。


この時代には国王には何人もの愛人を持って当然とされていました。先代のルイ十五世などは、60人以上の私生児が来た事は前にも触れました。ルイ十六世の周囲にも、ちやほやしてくれそうな美女はいくらでもいたはずです。公式寵姫にもなれるかもしれないのですからね。


なぜ、ルイ十六世はそうした女性たちと付き合わなかったのでしょうか?こうして考えてみると、マリー・アントワネット以外の女性には見向きもしなかったルイ十六世はこの時代稀に見る名君だったのかもしれません。

マリー・アントワネット (通常版) [DVD]

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ルイ十六世 上

ルイ十六世 上

ルイ十六世 下

ルイ十六世 下