武田信玄は長篠の戦いを予想して、病をおしてでも西上作戦をしなければならなかったのでは?

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武田信玄は経済的にも大きなハンデを持っていた

織田信長の最大のライバルと言えば誰を思い浮かべますか?私の場合、織田信長とこの人が戦をすればどっちが勝ったのだろうか?と考える人は武田信玄です。


織田信長の最大の危機と言えば、武田信玄が信長包囲網の陣を採ろうとした西上作戦の時期だと思います。しかし、武田信玄は西上作戦の途中、志半ばで病に倒れることになりました。武田信玄の享年51歳、なぜその歳まで織田信長と戦をしなかったのだろうか?どうして病気を押してまで戦に臨んだのか?いろいろと謎はありますよね。


武田信玄と言えば、甲斐の国の守護大名から、信濃川三河、上野を平らげ、最盛期の最大版図は百万国近くを持っていた戦国時代を代表する戦国大名です。


そんな武田信玄織田信長が争ったのは、武田信玄の晩年です。信長に対決を挑んだ西上作戦では、織田信長をあと1歩まで追い詰めながら、自らの死によって、結局果たせずじまい。もし武田信玄が病で倒れなかったら、武田信玄が信長に代わって天下を取っていたのではないかという説も根強く残っています。

しかし、武田信玄織田信長の関係を地政学・経済学から両者の勢力を考えると、全く違った印象になります。織田信長は経済的余裕は、武田信玄をはるかに凌いでおり、両者の間にはかなりの開きがあったと推察できます。


武田信玄の武田家は、元々甲斐の国の守護家でした。甲斐源氏の棟梁という地位がありました。守護大名の家臣から成り上がりの織田信長や、守護代に過ぎなかった上杉謙信と比べても、戦国大名としてのスタートラインはかなり有利な立場でした。にもかかわらず武田信玄は、上杉謙信との対決にはてこずり、織田信長には大きく出遅れてしまいました。


その最大の要因もやはり経済的な問題なのです。

内陸の国は経済封鎖で物資が届かない

武田信玄の出発点にある甲斐の武田領は、山間部にあり内陸の「陸の孤島」であり、それが上杉家や織田家と比較して、かなり大きな経済的ハンデになりました。


戦国時代、甲斐の武田領は、海に面していないので、交易や商業はあまり栄えていませんでした。そして武田領での生活は、他国から生活に必要な物資を輸入に依存しているところが多々ありました。領地まで船舶で直接、生活物資を搬入することができず、必ず陸路を通らなければなりませんでした。だから、周辺の対応と敵対すれば、物資の流通を簡単にストップされてしまうのでした。


当時の戦国大名たちは、交戦中の相手や、仮想敵国の国力を弱めるために、経済的封鎖をよく行いました。自国領から、敵国への物資を遮断するのでした。


また、戦国大名の両国間には役所、関所といった人や物の往来を管理する施設がありました。そこでは、人や荷物が通行に対して、税を課して、認可を受けていない人や物の通過を許可しない入国管理局のような役目を果たしていました。


特に、両国の境界の関所では、厳しくチェックされました荷留となっているものが見つかれば差し止められ、荷物は押収されました。今の税関の仕事とほぼ同様です。船のチェックはさらに厳しく、その地域の大名の朱印状がなければ、往来できないようになっており、船荷も役人によって中身が調べられました。


敵対する大名との境界では、街道は双方で封鎖され、人や物の移動は禁止されました。これは「路地断絶」「通路断絶」などと呼ばれていました。


戦略物資などは、敵対大名との境界に限らず、日常的に自国領から持ち出しが禁止されていました。記録に残っているだけでも、結城、上杉、北条、武田、長曽我部、島津などが戦略的物資の荷留を行っています。


特に、結城家にまつわる資料「結城氏新法度」では、荷留の対象として、「馬、米、塩、木綿」などが列挙されていました。


これらの荷留は、戦国時代には頻繁に行われていました。敵方の戦略物資を差し止める戦法を多用していたわけです。いつの時代でも戦争において経済封鎖というのは常識的な作戦でした。


武田信玄の領地は、この経済封鎖に常に悩まされていました。前述した通り、甲斐国の武田領は山間部にあり、様々な物資を隣国から輸入に頼らざるを得ませんでした。軍事物資だけでなく、人が生きていく上で最低限必要な生活物資でさえ輸入に頼らざるを得ませんでした。


その最たるものが塩です。


海のない甲斐の武田領には、塩は陸上輸送で調達するしかありません。当然、ライバル大名から武田信玄はその弱みにつけこまれるのです。


今川氏や北条氏が手を組んで、相良・伊豆・駿河からの武田領への塩の輸送を禁止したことがあります。このとき、武田信玄の生涯のライバルだった上杉謙信が武田領に塩を送ったと言うエピソードもあります。これが「敵に塩を送る」という諺の語源ですね。しかし、これは史実的に証明はされておらず、後世の作り話だとする説もあります。とはいえ、そういったエピソードがあるように、武田信玄は荷留に弱かったのです。


このハンデを抱えていたため、武田領ではなかなか経済的成長は出来ませんでした。そしてこの問題は、信長との争いにおいても大きく、決定的な影響を及ぼすことになりました。

その最大の原因は、織田信長が堺の港を領地に押さえてしまったからです。

この経済封鎖で武田家に鉄砲を使わせないことができた。

織田信長は、堺、草津、大津を直轄にし、自ら政治の指揮を執りました。これは明らかに東国への経済封鎖の意図があったことが後から見て分かります。


堺、草津、大津の港は、貿易による収益の面がクローズアップされがちですが、この3つの港はは収益以上に戦略的価値がありました。


堺、草津、大津を押さえた織田信長は、敵国に対して当然のように軍需物資や生活物資の差し止めを行っていました。


例えば、1577年に上杉謙信と交戦していた織田信長は、若狭湾を廻船する船に対しても、上杉領へ米の搬入を禁止しています。また、柴田勝家も、三国港の問丸の森氏に越後、越中能登の3カ国に入船する船を止めさせています。


織田信長が武田方に対して行った「荷留」の具体的な記録はあまり残っていませんが、様々な形で経済封鎖をしていたことは間違いないでしょう。


信玄が死んだあと、息子・武田勝頼が織田・徳川と争った長篠の戦い、絶対的な武田騎馬軍vs織田家の鉄砲隊との争いとして有名ですが、武田家は鉄砲隊を組むことができなかった理由があります。武田家は経済封鎖によって、鉄砲や鉄の入手することに大変苦労した様子は、いろいろな書の中で残されています。


長篠の戦いのの少し前に武田信玄の甥・穴山梅雪が配下にこうう命令を下していることが残っています。


「敵方の手下のようなふりをして敵の商人と取引せよ。うまく鉄や鉄砲を購入できれば、輸送のための馬は200頭でも300頭も用意する。」と。


武田信玄からしても、どうしても鉄や鉄砲の不足を解消しようと言うエピソードですね。穴山梅雪は、武田軍でも重要な武将の一人で、駿河国の江尻を領有していました。(後で、織田側に金2000枚を持って寝返っています。)


それでも、戦国時代でも鉄砲は国産化されており、重要港を押さえられていても入手する術はありました。しかし、鉄砲を用いるには、弾薬の原料として硝石が必要となりました。この硝石はまだ国産化されておらず、ほとんど中国や南蛮からの輸入に頼っていました。


海外貿易ルートを持たず、硝石手に入れられないになれない武田家のような戦国大名は、たとえ鉄砲を集めていたとしても、戦場では鉄砲が隊を組むことができなかったのです。


戦国時代にも、海外と貿易している港はありましたが、最も東に位置していた港が堺でした。堺よりも東には海外の貿易船は入ってきませんでした。つまり、堺を押さえられてしまえば、爆弾の原料となる硝石は手に入りません。


織田信長が上洛して以来、東国の戦国大名武田信玄上杉謙信などは硝石の入手に非常に苦労したはずです。

武田信玄には病気を押してでも戦に出なければならない事情があった

武田信玄は裁判で病気中であっても無理をしてでも出陣しました。


1572年、将軍足利義昭の求めに応じて、西上作戦を決行しました。信長包囲網の盟主として、三河の徳川領を侵攻し、信長との全面対決に踏み切ったのでした。

武田信玄は、この西上作戦において京都まで侵攻し、天下に号令をかけるつもりでいました。


当時、織田信長は朝倉・浅井と交戦中であり、石山本願寺などの仏教勢力と題しており、ここで武田信玄が西上してくれば、たとえ信長であっても四方を囲まれた状態で危ないところだったと思います。


しかし、信長を追い詰める寸前のところで武田信玄が病気で死去。信長は絶体絶命のピンチを逃れたと言うのがこれまでの通説です。


これも経済的観点で眺めるならば、この見方は多少の認識誤りがあると私は思います。


この西上作戦で、武田信玄三河に侵攻した後、徳川家康のいる浜松城を無視する素振りをみせています。浜松城には目をくれず、そのまま西に侵攻していきます。


これについては、武田信玄は当時の家康を相手にしていなかったとして、先を急いだと言うような見方もされています。


しかし、武田信玄徳川家康を軽視して無視したのではなく、浜松城を落とせるだけの準備ができおらず、徳川家康との争いを最小限の被害に留めていたかったと言うことです。


浜松城を陥落させるためには、相当の兵力が必要となります。堺までは先も長く、人員だけでなく、鉄砲などの武器、秤量など多くのことがあります。浜松城に費やすことができる物資が、武田信玄にはなかったのではないかという見方もできませんか?


武田信玄織田信長の経済封鎖に苦しめられていたと推察すれば、当時、武田信玄には軍需物資を十分に揃えられあかったとも推察できます。


武田信玄からすれば、なるべく早く信長による経済封鎖を解かなければ、このままジリ貧でした。だから、弾薬不足していながらも、または徳川家康に背後を突かれるリスクなど多少無理しても西に急がなければなりませんでした。実際、武田領では、この西上作戦のため、かなり重い税を課したという記録が残っています


武田信玄が西上作戦を続けるには、浜松城は落としておきたい、いや落しておかなければならない。しかし、武田信玄にはその十分な軍備がない・・・そんなストレスは計り知れるものではありませんよね。武田信玄は、そんな窮地に追い込まれたままで進軍していました。当然、信玄の病気の進行は早くなっていったのではないでしょうか。

新装版 武田信玄 山の巻 (文春文庫)

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長篠の戦い―グラフィック図解 (歴史群像シリーズ)

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