世界大恐慌中に日本の造船技術が向上して欧米諸国との経済摩擦に

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日本の造船業の発達がイギリスとの経済対立に発展

明治以降、日本は奇跡的な経済成長を遂げてきた。明治維新から第2次世界大戦までの70年間で、日本のGNPは約6倍に増加しています。実質賃金は約3倍、実質工業生産は約30倍、実質農業生産は約3倍になっています。

しかし、日本の経済成長は喜ばしいことばかりではありませんでした。日本経済が急成長したことで欧米諸国との間で、しばしば経済対立を生むようになっていたからです。

日本は、産業の近代化により、これまで欧米が持っていた輸出シェアを奪っていくことになります。

例えば造船業です。

明治初期の日本では、船舶の多くを輸入していました。そして、その輸入元はイギリスを始めとする欧米だったのです。特に日露戦争で主力を張っていた戦艦のほとんどがイギリスであり、軍艦の輸入はイギリスに依存していました。

しかし、明治中期から日本は急激に造船技術を発達させました。

幕末に味わった黒船の脅威で開国を余儀なくされた日本は、造船業を最優先すべき作業と位置づけていました。幕末から幕府や薩摩藩などは既に自前で造船行っていましたが。日清戦争後に、それを本格化することになったのです。

明治29年には、造船奨励法などが施行され、船の製造には補助金が出されることになりました。また航海奨励法も施行されました。これは日本製の船を買った船主に補助金が出される制度でした。。

1910年頃には、日本国内の船舶需要は、すべて国内の造船業で賄えるようになり、以後は船舶の輸出国に転じました。

第1次世界大戦の時は、ヨーロッパの工業生産が落ち込んだの契機に、日本は造船業を増加させました。

第一次世界大戦の間だけで、日本は184隻、40万トンの船舶を欧米に輸出し、大戦期にはイギリスとアメリカに次ぐ世界第3位の造船国となったのです。

当然ながら、この状況は、欧米諸国が黙ってみているわけではありません。特に、イギリスとの間で日本は深刻な経済対立を生むことになりました。そして、この経済対立は、世界大恐慌を機に一気に過熱することになったのです。

世界大恐慌で日本が欧米植民地に輸出量を増やしていく

世界大恐慌により、イギリスも日本経済的に大きな打撃を受けていました。昭和4年から昭和6年の間、日本の輸出は半減してしまいました。しかし、日本の経済回復は、他の欧米諸国よりもかなり早く、1年後の昭和7年には世界恐慌前の水準に戻っています。

これは円の為替安を背景に輸出業振興策を採っていたためです。

当時、日本は国を挙げて輸出製品の品質向上に励んでいました。

また、日本は世界大公共よりも一足速く、深刻な不況を経験していたことも影響しています。

第一次世界大戦で爆発的に輸出が増加したものの、欧州諸国の工業が復興してくると、それは急激に減少し、不況となったのです。そこに、関東大震災が追い打ちをかけました。

そうした経験から日本は、産業立て直すために輸出促進を掲げていたのです。日本の製品は価格では競争力がありましたが、品質は欧州などに比べて見劣りがし、「粗製艦造」の批難を受けることも多くありました。

そのため、大正14年に「重要輸出品工業組合法」が制定され、厳しい品質検査を行うことになりました。そして、価格が安く、品質が良くなった日本製品は、世界大恐慌あたりから急激に競争力をつけていたのです。


また円安も日本の輸出増進に拍車をかけました。

世界大恐慌の後、日本は急激な円安状態になっていましたが、政府はこれを放置していました。そのため、円の価値は1929年には100円あたり約49ドルだったのが、1933年には25.23 ドルに低下していました。

円のドルに対する価値は、たった3年で半値になったわけです。現代の円安よりも、さらに急激な円安状態になっていたのです。

その円安を背景に、日本は集中豪雨のように輸出を行いました。

結果、日本はインド、東南アジア、オーストラリアなどから欧米植民地国に対して、急激に輸出を伸ばしたのでした。

日本がイギリスのインド市場を奪った

日本の輸出の主力となったのが、綿製品でした。

この頃は長らく日本の主力製品だった生糸や絹に陰りが見え始め、日本の繊維産業は本格的に綿製品にシフトしていったのです。

日本は綿輸出は、世界大恐慌前後で急激に増加し、昭和8年にはついにイギリスをも追い抜いたのです。

イギリスとしては当然、面白くありません。自国の重要性産品のシェアを日本に奪われたのであるから当然です。

そもそも綿製品と言うのは、イギリスの代名詞でもありました。イギリスは産業革命によって、綿工業の動力化に成功し、その経済力によって世界の覇者となっていたのです。


19世紀から20世紀初頭にかけての世界経済の発展は、イギリスの綿製品を中心としたものでした。20世紀初頭の世界貿易において、綿製品などの繊維製品の割合は10%にも達し、さらにイギリスのシェアも近かったのです。

綿製品は、世界の覇者であるイギリスを支える屋台骨でもありました。それくらい重要な分野で、イギリスは日本に抜かれたのです。現在の日本に置き換えれば、自動車の輸出量を韓国に抜かれる位の衝撃があったのでしょう。

イギリスにとって特に打撃を与えたのは、インド市場を奪われたことです。

当時のインドは、イギリスの植民地であり、イギリス庭先のようなものでした。イギリスの工業が斜陽化してからも、綿製品を植民地のインドに売ることで、イギリス経済を支えていたのでした。そのインド市場が様々な面でイギリス製品に有利な条件があったにもかかわらず、日本製品に食われてしまったのです。日本製品には、それだけ競争力があったと言う事です。

これに慌てたイギリスは、強硬手段に乗り出しました。輸入規制、いわゆるブロック経済でした。

インドは、イギリス政府の要望に応える形で、昭和5年4月、綿業保護法を施行しました。これは、綿製品に対して、イギリス製品は15%、その他の国の製品には20%の関税をかけるというものでした。


イギリスの綿製品への関税は、さらにエスカレートしました。昭和6年3月には、イギリス製品20%、イギリス以外の製品は25%となり、同年9月にはイギリス製品5 25%、イギリス以外の製品31.25%となりました。

そして昭和8年、インド政府は輸入綿布の関税を大幅に引き上げさせました。イギリス製品に対して25%に据え置くが、イギリス以外の製品には75%もの高関税を課したのでした。この高関税は日本製品を狙い撃ちにしました。

東洋経済新報』昭和8年10月14日には、イギリスの圧力に対して、「我国は焦慮無用」と題された次のような記事がありました。

“此の頃の英国および英領諸国の我国に対する態度は全くなつていない。所謂貧すれば鈍するので、気の毒にも英国人は近年不景気で少々逆上していると評するより外はない。が、さうだとすれば我国としては、英国人の此の逆上を真面目に取つて、今にも日本の経済が四方八方から圧迫せされ、押しつぶされてもするのか如く驚くことはない。強者は日本で弱者は先方だ。”

もちろん、日本としても黙ってはいませんでした。

日本はインドの綿花輸入をストップしました。当時、インドは綿花を重要な輸出品としており、その主な得意先が日本でした。インドは綿花を日本に輸出し、綿製品を日本から輸入していたのでした。

そのため、日本の綿製品業者は、インドからの綿花購入をボイコットすることで、対抗しようとしたのでした。これにより、インドの綿花を大暴落し、インド経済は大きな打撃を受けました。

インドにしてもこの状況は解消したかったので、日本とインドで調整が行われました。そして、インドからの綿花輸入と日本の綿製品品の数量をリンクすることで、両者は一旦同意されました。

ただし、この経済摩擦は結局解消されませんでした。

その後もイギリスからの横やりが入り、今度は日本の雑貨品に高関税をかけるなど、インドの裏切り行為が続いたのでした。そして、インド市場から締め出された日本は、そのはけ口を満州に求めることになったのです。

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