石見銀山の散歩道をぶらり歩いて毛利元就を憂いた

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宝の山“石見銀山”を領有していた毛利元就

戦国時代、全国統一のところまであと一歩だったのは織田信長は当然のお金持ちです。しかし、織田信長よりも圧倒的な経済力を持っていたかもしれないのが毛利元就です。

毛利元就は、絶頂期には中国地方の全域の8ヵ国に領土を広げ、北九州地方にも進出していた大国を築いた戦国大名です。

しかも毛利元就石見銀山というまさに宝の山を持っていました。石見銀山は当時、世界的にも知られていた銀山です。石見銀山の銀は、日明貿易南蛮貿易倭寇などにより世界中にばらまかれ、世界経済を変えたとまで言われていました。晩年の毛利元就石見銀山さえも制圧していたのです。


経済力から言うと、織田信長にも圧倒した力を持っていたはずです。にもかかわらず、毛利元就は信長の後塵を拝したのでしょうか。


簡単に言えば、石見銀山を持っていながら、うまく活用できなかったのです。

石見銀山は「石見銀山旧記」や「石見銀山紀禄」などによると、鎌倉時代の武将の大内弘幸が霊言によって迩摩郡仙の山で銀を採ったことが始まりとされ、南北朝時代には足利尊氏の息子である足利直冬が石見を攻めて銀山を制圧し、銀を採取したと言います。つまりは、鎌倉時代から、銀山として開発されていた山でした。

戦国大名によって取り合いになった石見銀山

この石見銀山は、戦国時代に大きく脚光を浴びることになりました。

博多の貿易商人の神谷寿禎が銀峯山清水寺に参詣したときに銀鉱を発見し、1526年3月、堀大工の3人を連れて銀鉱を掘りました。


そして、ちょうどそのころから「灰吹法」という金銀の採掘における画期的な精錬技術が使われ始めていました。これは朝鮮からも垂らされた技術で、高熱で溶けた鉛の中に鉱石を入れて、不純物を除去して鉛合金を作り、それを動物の骨を焼いた灰の中で溶かして鉛を分離し、純度の高い金や銀を抽出するという方法です。

石見銀山も、この「灰吹法」を導入することによって、飛躍的に銀の生産量が増加しました。そして、一躍世界的な大鉱山となりました。

当時は戦国の世であって、この宝の山を巡って当然激しい争奪戦が繰り広げられていました。

石見銀山の一帯は、応仁の乱の後、吉見、三隅、小笠原など諸大名が割拠していましたが、大永のはじめ大内義興支配下に治めました。

その後、大内氏と出雲を支配する尼子氏の間で壮絶な領有争いが起きました。大内氏が滅んだ後は、元就と尼子氏の間での争いとなり、1562年2月に、ようやく元就が石見をほぼ支配下に治めることになりました。

毛利元就石見銀山を幕府と朝廷に譲って安心と信用を得た

ただし、毛利元就は、この石見銀山を最大限に活用できたわけではありません。

1562年12月、元就はこのせっかく手に入れた石見銀山を朝廷と幕府に献ずると申し出ていました。元就はその年の1月にもすでに佐東銀山を朝廷と幕府に献納することを願い出て、許されています。

なぜ元就はわざわざ入手した銀山を朝廷や幕府に献上したのでしょうか?

石見銀山で大量の銀が採掘できることは、当時、日本中に知られていました。周囲の勢力だけでなく、幕府や朝廷などもその動向を見張っていました。周囲の勢力は隙あらば、この銀山を奪い取ろうと考えていました。

そのため、元就は、自分が石見銀山を領有する大義名分を得るために、幕府や朝廷に石見銀山の献上を願い出たのです。石見銀山は元就の力で奪い取ったものですが、その所有の正当性のために、幕府や朝廷のお墨付きをもらおうとしたわけです。

献上したといっても、これをそっくりそのまま幕府や朝廷に差し上げたというわけではありません。元就は、この石見銀山の代官となり、管理することを同時に願い出ています。

代官は、銀山の管理者であり、事実上、銀山の経営を任されています。その代わり、収益の一部を朝廷や幕府に送るのです。

本来は、銀をどれだけ幕府や朝廷に送るかは、経営者である元就の意思よるところも大きかったのもポイントで、当時の朝廷や幕府は互いに無理に取り立てるだけの力、元就にプレッシャーを与えるほどの力がなかったからです。

しかし、元就の場合、かなり本気で「石見銀山は公用のもの」と思っていたそうです。というのも、元就の遺言では「銀山は御公領であり、自余のことに用いずに弓矢の用にのみ充当せよ」と言い残しています。

つまり、石見銀山は公的なものなので、私的な儲け話に利用してはならず、軍事費にのみだけ充てよ、というわけです。私的に使ってはならないなら、軍事費にも充ててはならないと思われそうですが、当時の毛利元就は大儀名分を楯に戦をすることが多かったので、公的なものという建前があったのでしょう。

毛利元就は弱っていた幕府や朝廷をまだ恐れていたから信長に後れをとったのかもしれない

また足利義輝などは、たびたび毛利家に銀を催促しています。しかも毛利家では、その催促に応じていたようでした。

織田信長生野銀山という大鉱山を持っていましたが、信長の場合、生野銀山の運営に関して、元就のように朝廷や幕府に遠慮をしていた形跡はありません。

逆に言えば、元就は朝廷や幕府の権威を見下し、「自分がくれてやるものだけをくれてやる」という態度は取れなかったのです。元就は、朝廷や幕府の権威をまだ恐れており、その点が信長に後れを取ってしまった要因の一つではないでしょうか?

世界経済を変えたと言われるほど石見銀山の富の大部分を、もし毛利元就が独占していたならば、毛利家は相当な軍事力を保有できたはず。きっと歴史は大きく変わっていたことでしょうね。毛利元就石見銀山を独占しなかったことが元就の敗因の一つだったのではないでしょうか。

石見銀山写真集

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