日本最初のクーデターを成功させた武将・源頼朝

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源平合戦は旧式の武士団と新興の武士団との戦でした

源平合戦は、西の武家の棟梁だった平家VS東の武家の棟梁である源氏の決闘というイメージがされていると思います。

確かに結果としてはそのイメージで間違いありません。しかし、両者にとって圧倒的な違いがあったのは武士の気質でした。平家が率いていた武士団と源氏が率いていた武士団の本質から全然違う集団でした。

平家が率いていた武士団は、旧来の朝廷のシステムによって集められた集団でした。

一方で、源氏が率いていた武士団は、東方で新たに勃興してきた階層を、源頼朝が束ねて作られた武士団でした。
極端な言い方をすれば、、源平合戦平清盛が束ねていた武士団は旧式の武士団であって、源頼朝が束ねていた武士団は新興の武士団でした。

源頼朝が新興武士団を束ねることができた理由

ではどうして、源頼朝は新興の武士団を束ねることができたのでしょうか?

よく知られているように、鎌倉幕府を作った源頼朝も少年時代は平家の人質でした。平清盛の命令によって、源頼朝は島流しに合っています。

1959年、頼朝の父・義朝は平治の乱平清盛に敗れてしまって、戦に参加した一族とともに殺されてしまいました。頼朝も戦には参加していたようですが、年少だったため命は助けられましたが、伊豆に流されてしまうんです。

源頼朝の伊豆での生活は20年にも及びました。

しかし、1180年、二条天皇の弟の以仁王が朝廷を牛耳っていた平清盛を倒すために、全国の源氏一族に秘密の挙兵命令を出しました。源頼朝は、それに応じて伊豆で挙兵するのです。

長い間、伊豆に流されていたのですから、当然、頼朝は大きな兵力を用意することができませんでした。にもかかわらず平家に対抗していくうちに、頼朝の下には、あれよあれよと言う間に武家が集まって、頼朝の最初の挙兵からたった4年間で平家を滅亡させます。

平家側からしたら、恩情で頼朝の命を助けてやったのに、仇を返されたと言う形になりました。

それにしても頼朝は20年も流刑の目に遭っていて、4年という短期間で、平家をも圧倒する多くの武家が集まったのだから、源頼朝はどれだけ人望があったんでしょうね?人望がなければ、人前には出ていくことはできません。しかし、人望だけでは、多くの武家が見方をしてくれるほど甘い世の中でもなかったはずです。

頼朝が多くの支持を集めたのは、人望だけだけが理由ではありません

頼朝が多くの武家を惹きつけた最大の理由は、当時の社会経済システムの変革、つまり既得権益の崩壊を標榜していたからです。

平家が牛耳っていたそれまでの日本の社会財政は、天皇を中心とした朝廷が政治を司ると言うものでした。摂関政治などで歪められてきた時代もありしたが、建前として天皇は建てられていて、天皇・朝廷は常に国家の中心にありました。

しかし、頼朝は、その国その国家体制をぶち壊して、武士による新しい社会経済体制を作ろうと画策していたのです。そして、ここが平清盛とは大きく違う部分でもありました

平清盛はあくまで天皇・朝廷中心の旧来の社会体制の中で自分の権勢を伸ばし、国家を牛耳っていました。自分が朝廷のトップに成り代わり、朝廷のシステムを利用して国家を意のままに下ろそうとしていたのです。自分が新しい体制を一から作ろうといった計画は清盛にはありませんでした。

一方で、頼朝は朝廷がコントロールしてきた社会経済システムそのものを変革し、武家が社会経済を管理するシステムを作ろうとしていました。この思想に魅力を感じ多くの武家が頼朝の元に集まってきたのです。

頼朝はなぜ義経を殺さなくてはならなかったのか

ところで、源平合戦の時代において、最大のミステリーとされるのが、頼朝による実弟源義経の殺害です。源氏の事実上の最高司令官でもあり、源平合戦において最大の功労者ともいえます。

頼朝はそんな義経を平家討伐した後にあっさり殺害してしまったのです

この事件は、長い間日本史の大きな謎の一つつとされ、頼朝の嫉妬説など多くの見方がされていましたが、これも頼朝の新しい社会経済システムを理解すればその理由が見えてきます。

頼朝はこれまでの社会経済システムを一変させようとしていました。頼朝は朝廷から任命されると言う形をとりながらも、政治上の様々な権限を自分に譲渡させ、自分と御家人たちによって、国の政治を動かすことを考えていました。

頼朝は1184年2月25日、朝廷に対して四箇条の提案をしています。そのうちの一つが、自分に「平家討伐の命令を下してほしい」ということでした。朝廷からの討伐令という大義名分があれば、全国の武士団を自分たちの味方に取り入れることができたからです。

しかし、四箇条の提案のなかで、頼朝は「戦において武家への勲功は自分が行う」としています。つまり、戦に参加した武家に朝廷が勝手に恩賞を与えてはならない、必ず頼朝を通して恩賞を与えることとしたのです。

この提案が実は旧来の国家システムから大きく逸脱したものでした。

旧来の社会経済システムでは、人を動員したり、戦争を指揮したりするのもやはり朝廷であり、勲功も当然、朝廷から行うものでした。

頼朝はこのルールを大きく変えて、自分が武士団を管理統括し、朝廷が武士団の行動には口出しできないようにしようとしたのです。

武家を朝廷から切り離しことで朝廷の影響力を排除し、自分が武家の長となって、新しい体制を作ろうとしていたのです。

頼朝は他にも、様々な権限を自分に与えるように朝廷に迫りました。

全国に集合指導を置く権利や、全国の武士を指揮したりする権利なども獲得していきました。頼朝は、朝廷の持っていた徴税権、軍事権、警察権など次々に獲得していき、実質的な「政権担当者」になっていたのです。


このように頼朝による新システムの要は、武士団の掌握にありました。

頼朝が全国の武士団を掌握し、武家が一致団結することで朝廷ににらみをきかせ政治の実権を握っていきました。

そのためには、朝廷が各武家と直接接触する事は避けなければなりません。武家が朝廷に取り込まれれば、「武士団による新政権」という構想が根本から崩れてしまうからです。

頼朝が実現したい社会経済システムはこの重大な大前提があってこそ成立します。しかし、この重大な大前提をこともあろうか、実弟義経が崩してしまったのです

義経は勝手に朝廷から官位を受けてしまってたのです。頼朝にとっては、弟・義経の官位を受けてしまえば、今まで自分が束ねていた全国の武士団に示しがつきませんよね。それが義経殺害のきっかけになりました。