成り上がり毛利元就はつぶやきで戦を巧みに操作した

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年収を100倍にした元就

今回は、毛利元就の話をしたいと思います。

安芸国(現在の広島県の西部)吉田の三千貫の小身から山陰山陽十ヵ国の主となっていました。戦国時代のサクセスストーリーの典型のような男です。


といっても、名前は聞いたことあるけど、ピンとこないなぁといいう人のために、織田信長を基準にして少し紹介してみます。

元就は、信長の37歳も年上。なので、戦国武将としては、信長などよりよほど年季が入った男です。

のっけから死んだときの話になりますが、元就は元亀二年(1571年)に75歳で病死してしまっています。信長が秀吉を発して、毛利家の領有していた中国地方を攻めるのは、その6年後の天保五年ですので、元就自身は織田家の武将と直接戦ったことはありません。

元就が死んだ元亀二年と言えば、信長が浅井、浅倉の連合軍を敗走させた姉川合戦の翌年、比叡山延暦寺を焼き討ちにしたその年です。元就は、戦国時代が最も沸騰した「元亀大正の世」の真っただ中で、残念にも死んでしまったのでした。

そんな元就でしたが、まず三千貫の話。

「〇万石」という所領の数え方を耳にした人は多いかと思います。一石は、時代劇などでよく目にする米俵、二俵半に当たります。一俵には60kgの米が入りますので、一石は150kg。

なので、「一万石の所領」と言えば、1500トンの米を収穫できる土地を領有しているということになります。

ちなみに、戦国大名の収入としては、歴史の授業で習った「五公五民」であれば50%が、「四公六民」であれば、40%が懐に入ることになります。もちろん、その懐に入った分を家臣に分け与えたり、そもそも所領の幾分かを家臣たちに割譲するので、大名家そのものに、入る米はグッと少ないのですが、「〇貫の所領」というのも同じく領地の数え方です。


「貫」というのは、貨幣の単位で、銭一千文が一貫に当たります。所領三千貫というのは、「三千貫分の米を生み出す土地を領有している」ことになります。収穫できるあろう米の数量をお金に換算したものでした。これを、収穫できる米の量で表した「石高制」に対して、「貫高制」と言ったりします。小田原北条家でも、この貫高制を採用していました。

なんだか小難しい話で、書いているのも面倒ですが、お付き合いください。

銭一貫分の米というのは、時代によって異なります。一貫が一石~五石ぐらい結構な幅がありました。したがって、元就の所領、三千貫の米というのは、最大でも一万五千石ぐらいです。

この一万五千石の所領がどういうものかというと、一万石につき大体300人ぐらいの兵を動員することができるので、450人の動員力ということになります。この450人も、全員が兵というのではなく、兵糧を運ぶ非戦闘員も含まれます。

元就という男は、この450人の小勢から乱世へ乗り出したのでした。元就の死後、毛利家が秀吉によって安堵された石高は百二十万石だったということですから、元の所領が最大でも一万五千石だとして、元就は生涯の間に、実に年間収入をおよそ百倍にした男でありました。

余談の余談をもう少し。

「毛利」というのは名字ですが、これの元は、広島ではなく、神奈川県の厚木市にあります。


随分とさかのぼりますが、毛利元就は、鎌倉幕府を聞いた源頼朝のブレーンともいうべき、大江広元という官僚の子孫です。この広元がその功績によって与えられたのが、相模国毛利庄でした。この毛利庄が現在の神奈川県厚木市に当たるわけです。

毛利庄を父の広元から相続したのが、四男の季光という男で、この季光が相続した土地の名を取って「毛利」という名字を名乗ったのが毛利氏の始まりです。

江戸時代に、徳川幕府が諸大名に提出させた系図をまとめた「寛政重修諸家譜」にあります。

「子孫季光がとき父広元、相模国愛甲郡毛利庄に住する故をもって毛利を称号とす」

というのがこれで、以降、季光の子孫は毛利を名乗りました。

その後、大江広元から見てひ孫に当たる時親が、毛利元就の本拠、安芸国吉田に引き移り、戦国期の毛利氏繁栄の礎を築きました。

こんなわけで、毛利の元は、神奈川県厚木市にあります。

現在でも厚木市には「毛利台」という地名があります。これがいつ名付けられたか知りませんが、何にせよ、かつて存在した毛利庄に由来していることでしょう。

つぶやきで勝利

さて、ようやく毛利元就ご本人のこと。

元就は、采配を取っての軍勢の駆け引きも上手な男でしたが、いまひとつ得意なことがありました。

情報操作がそれ。敵を欺く用間の術でした。その情報操作を、元就は主に、「つぶやき」によって成し遂げます。

元就のエピソードには、度々の「つぶやきによる情報操作」が登場するので、「毎度毎度似たようなことを良くすんなぁ」と可笑しくなるほどです。

その一つ。

中国地方の覇権が大内氏と尼子氏によって争われていた頃、小勢力であった毛利元就は、当初尼子氏の傘下に入っていましたが、大内氏に鞍替えしました。当主の尼子晴久当然のごとく怒り、元就を滅ぼすべく画策します。

それが間者を毛利家に送り込むということでした。晴久の近臣、内別作助四郎という男が毛利家の家臣となり、まんまと元就の居城、郡山城に潜り込むことに成功します。


こういう場合、パターンなのが、元就はすぐにこれを見抜いてしまうということです。どう見抜いたかは書いていないので、分かりませんが、用心深い男であったのでしょう。

ところが、元就はこれを討ち捨てることもなく三年もの間、近くで召使います。

そして、「つぶやき」の瞬間が来ます。

尼子晴久が大軍を催して、郡山城に攻め寄せるとの情報を得た元就は、この内別作のいる前で、こうつぶやきます。

「晴久よ、胄山に陣を張ってくれよ。もし三猪口に陣を張って味方の大内家に通じる通路を遮断されたら、もうどうにもならないからなぁ」

内別作は、このつぶやきを聞くや毛利家を出奔します。無論、主人の尼子晴久に三猪口へ陣を敷かせるためです。

内別作の出奔を知った元就は、「すでに戦いは勝った」と大いに喜びました。

胄山は、郡山城を見下ろす位置にある一方、三猪口は平地です。平地での戦闘の方がやりやすいと判断していたからです。

「胄山から敵に見下ろされれば、どうしようもなかったわ」

元就はそう家臣どもに言って胸を撫で下ろしました。尼子晴久は、患者の注文通り三猪口に陣を敷き、負けてしまいました。

元就はこのつぶやきの術で、いくつかの合戦に勝利します。

智謀の人 毛利元就 (中公文庫)

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