平清盛は銭ゲバだった?

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※瀬戸内海の地域が発達したのは平清盛の功績がすごく大きかった。

平安時代の末期に大勢力を築き、源頼朝と壮絶な源平合戦をく広げた平清盛

平清盛後白河天皇の信認を得て、太政大臣にまで上り詰め、娘を天皇に嫁がせることでますます権力を強化していきます。

最終的には国政の実権を握り、清盛に刃向かおうとした後白河上皇を幽閉するなど、傍若無人な振る舞いをしたことでも知られています。権勢を欲しいままにし、平家一族に日本中の富や利権を集中させました。

その驕慢さから「平家に非ずんば人に非ず」という言葉さえ生まれています。


なぜ平清盛がこれほどの権力を持つことができたのでしょうか?その理由はいくつかありますが、もっとも影響が大きいと言えるのは「日宗貿易」でしょうね。

清盛は、権力を握る以前から日宋貿易に精を出していました。そして、貿易によって得た経済力で、天皇家や有力公家に近づき、権力を手に入れたと言えるのです。


清盛が貿易に勤しむようになったのは、清盛の父・平忠盛の影響があったからと言われています。

平忠盛は、各地の国司を歴任していましたが、越前守を務めているとき、日宗貿易が大きな富を生むことを知ったと言われています。当時、越前の敦賀港は、博多に次いで重要な日宗貿易の拠点でした。

忠盛は貿易に積極的に携わるようになり、既に平家は巨万の富を得たとされています。そんあ父の背中を見ていた清盛は、当然のように日宋貿易に精を出すようになったのです。

平安時代日宋貿易の最大の拠点は九州の博多であり、これは朝廷の吸収出先機関である大宰府が管理していました。貿易船の多くは博多港に入り、ここで大宰府の役人たちが船荷をチェックしました。そして、まず朝廷が買い上げる商品を選別し、残った品物が商人の手で各地に販売されるのです。


ん?つまり、平安時代日宋貿易というのは、原則として「朝廷による管理貿易」だったのです。


とはいえ、朝廷が完全に品物の受け渡しを管理できていたわけではありませんでした。有力な貴族などが大宰府の役人や貿易商人を通じて、朝廷よりも優先的に貴重な品物を手に入れることもできたようです。かの藤原道長なども、天皇さえ持っていなかった貴重な宋の品々を持っていたとされていますが、それは独自のチャンネルで入手していたものと思われます。

結局、現場を仕切っているものが一番強い、ということですかね。


そのため、平清盛は貿易の“現場”に深く携われるポストを奪取していくのです。保元3年、清盛はまず大宰府の「大宰大弐」という官職につきます。これは実質的に大宰府の最高責任者ともいえるものでした。

清盛はこのとき、筑前の実力者である原田種直を重用し、「太宰権少弐」というポストに就けました。「太宰権少弐」というのは、清盛の「太宰大弐」に次ぐポストで、現場責任者とも言えるポジションでした。

清盛の日宋貿易の実務を取り仕切っていたのはこの原田種直とみられています。それを示すかのように、原田種直に関係の深い福岡県糸島市の木舟の森遺跡からは、中国の当時片が大量に見つかっています。ちなみに清盛は種直を取り立てたころに、博多に日本初となる人工港を作ったとされています。

さらに清盛は貿易に入れ込んでいきました。博多よりもはるかに京都に近い兵庫に、貿易拠点となる港を整備しようと考えたのです。清盛は福原に別宅を構え、長寛元年には、大輪泊港(現在の神戸港)に大改修工事を施しました。これで大輪田泊港には、宋だけでなく、日本各地から産品も集積されるようになり、畿内の一大交易拠点となりました。


現在も神戸は国際港として日本の流通拠点となっていますが、それは平清盛におかげでもあります。

また、嘉応2年に清盛は、後白河上皇と宋の承認を福原で引き合わせています。当時、天皇上皇が直接外国人と面会するのはタブーとされており、公家・貴族の中からは非難の声も多く上がっていました。

しかし、タブーが破れるということは、平清盛の権勢がそれだけ強かったということでもあります。翌年の承安元年には、宋からもたらされた羊などを後白河上皇に献上しています。

これは余談ですが、当時の都では疾病が流行しており、「清盛が献上した羊のせいだ」という風聞も巷には流れていたそうです。清盛が勝手な振る舞いを重ねるに連れて、世間からの風当たりも強くなっていたということでしょうね。

いずれにしても、影響力を増していった平清盛は、日本の貿易を取り仕切り、発展させることで、大きな経済力と権力を手に入れたのです。

日本で最初に“大金持ち”になったのは清盛

平清盛は、日本で最初に大金持ちになった人物だと信じています。蘇我氏藤原氏なども権力を持っていたとは思いますが、お金=貨幣として大量に保持したのは平清盛が最初だと思うのです。貨幣を日本で本格的に流通させたのは、平清盛だったと見られています。


清盛以前の時代、朝廷は銅が不足により、銭の鋳造をしなくなっていたのです。10世紀末から銭の流通が少なくなって、その後150年もの間貨幣は流通していなかったと言われています。なぜそれが分かるかというと、土地売買の記録から銭の使用の記載が消えていたのです。人々は物の売買の際に、米や布を貨幣の代わりに使っていたようなのです。

だが久安6年に、土地売買の記録に再び銭の記載が出てきました。このころに銭の流通が再開したとみられています。

ではなぜ、また銭が流通することになったのでしょうか。

これは日宋貿易の影響で、中国から「宋銭」が大量に入ってきたのです。この宋銭を大量に輸入し、経済力を握ったのが、平清盛を中心とした平家一族だと言われています。

平清盛日宋貿易を取り仕切ることで、巨額の富を得ていました。その「富」の中には大量の銅銭も含まれていたようです。

実は平清盛が実際に宋銭を輸入したという記録は残っていません。そもそも輸出入の詳細な内容が残っていないからです。そのために「平清盛の宋銭輸入はウソ」という歴史家もいますが、この当時日宋貿易を取り仕切っていたのは平家一族であって、日本で大量に出回る宋銭の輸入に彼らが関与していない、とはとても考えられません。


また、宋銭の流通拡大と、平家一族の繁栄のタイミングが重なっていることから見ても、宋銭の増大に平家が深く関わっていたことは間違いないでしょうね。

この宋銭は、日本を完全に貨幣経済にしてしまうほどの影響力がありました。

米や布が貨幣代わりに使用されていることがほとんどなくなり、13世紀の後半には、年貢なども米ではなく、銭の支払いに変わっています。それは当然ン、貨幣のほうが商取引に便利であるからです。

便利になるどころか、にわかに「銭ゲバ化」する人も多かったようです。

治承3年の「百錬抄」には、「近日、天下上下病悩。号之銭病」という記載がありました。これは「今の世の中は、上も下も銭の病に悩まされている」ということです。

治承3年は、平清盛が権勢の最高潮に達していた時期でもあります。政治、経済において、清盛は絶大な権力を持っていました。つまりは、「銭の病」も平清盛が流行させたと見てもいいくらいでしょう。

いずれにせよ、平清盛が権勢を振るう時代に日本で銭が本格的に流通するようになり、それには清盛が大きく関わっていることは間違いありません。そして、平家が滅亡した後、この宋銭の利得を引き継いだのは、鎌倉幕府であり、北条氏へと繋がっていくのです。

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