黒船来航から裏目裏目に出た江戸幕府の対応

f:id:t-dicek:20170723130706j

黒船の衝撃と、通商条約の締結

嘉永6年(1853年)、アメリカのペリー提督による4隻の軍艦、いわゆる黒船が横浜の浦賀沖に来航しました。

彼らは日本との交易を求め、大統領の親書を携えてやってきたのです。しかも、「断れば一戦も辞さず」という強硬姿勢さえ持っていました。

これには、もちろん日本中が驚きました。そして、アヘン戦争の経緯を知っていた幕府や諸藩の知識人たちは「ついに来たか」と腹をくくったと思います。

江戸時代、日本は鎖国していましたが、情報を全く遮断していたわけではありません。長崎、琉球対馬松前の4つのルートから、海外の情報が入ってくるようになっていました。朝鮮とは定期的な通信をしており、清とも国交がありました。

また、西欧で唯一国交のあったオランダからも、世界情勢が入ってきていました。江戸時代から日本の知識人たちは、欧米列強についても情報を持っていました。

そして、アジアの大国である清が、イギリスの強引なアヘン輸出と武力侵攻に遭い、国家の存亡を揺らがされるような大変な目に遭ったという情報ももちろん入手していました。

アヘン戦争終結した年の2年後には、オランダの王から次のような書簡が幕府に届いています。
「今、帰国の幸福なる地をして兵乱のために荒廃せざらしめんと欲せば、異国人を厳禁するほうを緩め給うべし」

つまりは、「アヘン戦争で中国がイギリスに散々やられてしまった。このようになりたくなければ、日本は今のうちに他国との厳しい交易制限を緩和するべきだ」と伝えているのです。


オランダ王としては、日本との長年の付き合いから、好意としてのアドバイスだったのでしょう。

ペリーの日本への来航は良く知られたことですが、その目的は捕鯨船の補給基地の確保のためでした。

当時、欧米諸国はクジラから“鯨油”をとり、それをロウソクの原料、機械の円滑油などとして使用していました。また鯨のひげはコルセットや傘の材料として使用されていました。

19世紀の鯨は欧米列強に乱獲され、その数が激減したと言われています。日本の捕鯨などはそれに比べれば微々たるもんです。(今は日本が欧米諸国から捕鯨を辞めるように非難されていますけどね。)

しかし、このペリー来航が日本の国家制度を変革させ、近代国家を作った直接のきっかけだったというのは間違いありません。

当時、日本近海には、ロシアやイギリスの戦艦がたびたび出没し、トラブルにもなっていました。また、上にも書いたように、知識人の一部は、欧米諸国がアジア各地を侵攻していることも知っていました。しかし、欧米諸国がこれほど直接的に圧力を加えてきたのは初めてでした。

幕府は、対処に困り、とりあえず親書だけを受け取り、1年後に回答すると言って、なんとかペリーを引き取らせました。

幕府は東京湾岸に砲台を作り、ペリーの再来に備えました。その半年後に、ペリーは再来し、幕府は仕方なく、アメリカとの和親条約を結んでいます。これで、200年以上続いた鎖国が崩れてしまったのです。

その4年後の安政5年、幕府は、アメリカとの間で通商条約である「日米修好通商条約」を締結。これは、関税自主権が認められず、治外法権を認めさせられる、いわゆる不平等条約だったことから、もちろん国中で不満の声が上がりました。


この不平等条約明治維新の大きな要因となります。

不平等条約を結んでしまった幕府に対して、「不甲斐ない」という声で溢れ、それが尊王攘夷活動に発展していくのです。

参勤交代中止で諸藩の倒幕の経済力をつける

ペリーの来航に仰天していた当時、幕府はこの危機を朝廷に持ち出すことによって乗り切ろうと考えました。つまり、勅許を得て開国を正当化しようとしたのです。しかし、これが大きく裏目に出しまいます。

それ以前は、幕府が政策決定でいちいち朝廷に許可を得ることはありませんでした。だが、ペリー来航時に限って幕府が朝廷の許可を求めてきたために、それ以降は、「外交政策の決定には朝廷の許可が必要」という前例を作ってしまったことになったのです。


ここで、問題が起こります。ペリーとの間で交渉された日米和親条約は、朝廷は事後ながら承諾を与えたが、その後の通商条約に関して、朝廷はなかなか首を縦に振らなくなってしまったのです。

そのため、幕府の井伊直弼は、朝廷をの許可なくして、通商条約を調印しました。それが諸侯や志士の反感を買って、尊王攘夷活動に火を付けることになります。そして、井伊直弼尊王攘夷活動を厳しく弾劾して、桜田門外の変で暗殺されることになりました。

井伊直弼は幕府内でも大きなリーダーシップを執っていましたが、そのリーダーを失って、結果的にその流れに乗った尊王攘夷活動が幕府を倒してしまうことになったのです。

つまり、幕府が下手に朝廷に許可を求めてしまったことが、自分たちの寿命を縮める結果を招いたのです。

また、幕府は文久2年に“諸藩の参勤交代は3年に一度”ということにした。しかも、江戸時代に留め置かれていた妻子も国元へ返すことにしたため、参勤交代は有名無実ものとなり下がったのです。

これはペリー来航に伴い、諸藩に沿岸防備などに力を入れさせようという狙いがあったと言われています。

しかし、これも幕府にとっては裏目に出ます。参勤交代は元々、諸藩の財力を奪って、謀反を起こす財力を奪ってしまう政策であり、諸藩にとって、参勤交代は大きな財政負担となっていました。

それがなくなったのです。当然、諸藩は軍備を集めることができるようになったわけです。そして、増強された軍備により、西南諸藩は討幕にうって出たのです。


また、開国自体も幕府には不利に働きます。それまで鎖国によって貿易の旨味は幕府が独占していましたが、開国によって諸藩も貿易で潤い、最新兵器を入手できるようになったのです。

黒船を来航してから江戸幕府の対応はことごとく裏目に出てしまった、のが倒幕のきっかけになりました。

今の安倍内閣も一つ一つの対応が裏目に出てきて、崩れそうになっている気がします。ただ、この時代と違うのは倒そうとする側も目的がバラバラであること、代わりになってやろうというリーダーがまだはっきりと分かっていないことが違うのかもしれませんね。

井伊一族 - 直虎・直政・直弼 (中公文庫)

井伊一族 - 直虎・直政・直弼 (中公文庫)


rekiblo.hatenablog.com
rekiblo.hatenablog.com