江戸幕府の鎖国、江戸幕府は内に閉じこもってなどいなかった

対馬藩の城下町厳原
対馬藩の城下町

江戸幕府鎖国しているわけではなかった?

江戸時代には、「鎖国」政策によって海外との交流を拒絶していた----そのようなイメージを一変させるエピソードを紹介したいと思います。


1673年、イギリス船が長崎の出島に来航して貿易の再開を求めてきました。「鎖国」直後の17世紀半ばはこうした往来が時折あったようですが、このとき幕府は国王チャールズ2世がカトリック国のポルトガル王女カサリンと結婚したことを理由に、貿易の再開を拒否しています。


幕府が「鎖国」を行った最大の理由はキリスト教の禁教であり、布教と貿易を不可分とするカトリック国・ポルトガルの排除を目的としていましたから、幕府の言い分には道理があるように思います。というよりも、この当時にイギリス国王が誰と結婚したか、という情報を幕府が入手できていた、情報網の方が驚きです。


なぜ、江戸幕府はなぜ遠いヨーロッパの王室の結婚などという情報を知っていたのでしょうか?これだけの情報量と外交力は、「鎖国」の殻に閉じこもっていたというイメージとは異なります。

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近年では、「開かれた鎖国」という観点から江戸幕府の外交体制に関する研究が進められています。そもそも、「鎖国」の語は、オランダ商館の医師として来日したドイツ人のケンペルが帰国後に「日本誌」を著し、19世紀初頭にその一部を幕府の長崎通詞だった志筑忠雄が「鎖国論」と題して訳したことから、幕府の対外政策を指す言葉として用いられるようになりました。


ですから、「鎖国」政策を推し進めていた17世紀前半に「鎖国」という言葉自体はなく、徳川家光ら当事者には国を閉ざした感覚はなかったのかもしれませんね。

江戸幕府の「4つの口」

江戸幕府は、キリスト教の禁教の徹底と貿易による西国大名・豪商の富裕化の防止を目的として、日本人の海外渡航やヨーロッパ人の来航を厳しく制限する政策をとりました。


1639年にポルトガル船の来航を禁止したあと、1641年にオランダ商館を長崎に建設した「出島」に移し、「鎖国」完成したようにも見えました。


しかし、これによって海外との交流が完全になくなったわけではありません。長崎出島にはオランダ船の他に中国の私貿易船も来航し、朝鮮からは対馬琉球からは薩摩を通じて使節団が来日しています。また、松前に交易権を認める形で蝦夷土に居住するアイヌとの交易がおこなわれていました。


つまり、長崎出島、対馬、薩摩、松前の4つの港が海外の窓口として開かれていたわけです。これを「4つの口」体制と呼んでいます。幕府は、窓口を絞り込むことで国内への影響を最小限に留める一方で、貿易の利益や海外の情報を独占しました。


鎖国」政策は、幕府の全国支配が外側から脅かされるのを防ぐ、バリアの役割を果たすとともに、海外交流を安定的で効率的なものとしていたのです。

長崎出島=オランダ・中国の窓口

鎖国」が整った後も、外交を続けていたオランダですが、正式な国交は結ばれず、バタビア(現在のジャカルタ)の東インド会社の支店として長崎出島に商館が置かれて、幕府の管理下に貿易が行われました。


中国とも国交は樹立されていません。17世紀後半に明から清に代わり、国情が安定すると、中国人の私貿易船の来航が増加しました。これに対し、幕府は金銀の海外流出を防ぐため、数度にわたって貿易額を制限しています。また、長崎市中に唐人屋敷を設置し、中国人の居住地を制限しました。


なお、来日した新任のオランダ館長は、長崎から江戸に赴いて将軍に謁見し、そして、海外の動向としてオランダ風説書を提出しました。これが王室の結婚の情報を知っていた理由です。しかも、この風説書は幕府の要人しか閲覧できないトップシークレットでした。こうして幕府は情報を独占したのです。

対馬=朝鮮の窓口

九州と朝鮮半島に挟まれる形で日本海上に浮かぶ対馬は、山が多く耕地に恵まれないため、朝鮮との貿易が生命線でした。そこで、豊臣秀吉による朝鮮出兵ののち、決死の覚悟で明と日本の和平交渉に乗り出しました。


1599年に送った使いは、誰一人対馬に帰ってくることはなかったそうです。まさに命がけですね。


そこで、対馬の支配者である宗氏は、江戸幕府を後ろ盾に国交を回復する道を選びました。幕府にとっても、東アジア外交に乗り出す良い機会です。宋氏は、朝鮮側に送る家康名義の国書と朝鮮側から送られてきた文章の両方をでっち上げて取り繕いました。こうして、1607年、徳川将軍から国書への回答と朝鮮人捕虜の相関を目的とする回答兼刷還使が来日し、国交回復が実現します。


この使節はのちに「通信使」と呼ばれるようになり、19世紀初頭まで、将軍の代替わりごとに12回来日しました。

また、朝鮮と宗氏の間では1609年に己酉約条が結ばれ、宗氏には歳遣船20艙と釜山への和館の建設が認められます。念願の貿易を確保したのです。


日朝貿易はやがて、長崎貿易の貿易量が制限されるなかで、京都西陣で生産される絹織物の原料である中国産生糸の輸入ルートとしても重要になってきました。

薩摩=琉球の窓口

1492年に中山王の尚巴志が北山・中山・南山の3つの勢力圏を統一して建国した琉球王国は、東~東南アジアの海上の要所という地の利を生かし、中国の明と東南アジア諸国との中継貿易で栄えました。


海禁政策(中国人商人の海外渡航を禁止する政策)を採る明にとって、琉球は東南アジア産の蘇木や香木の入手ルートとして重要でした。貿易用の船を提供し、外交能力のある江南人を送りこんでいるほどです。 三山時代も含め計171回という朝貢の回数が、明における琉球の地位を証明しています。

しかし、琉球の繁栄は長くは続きませんでした。16世紀に入り、明の衰退とともにヨーロッパ諸国がアジアに進出してきたため、琉球は中継の地位を奪われます。そして、江戸幕府の設立後の1609年、薩摩から侵攻をうけると、ほとんど抵抗もできぬままの首里を占領されてしまったのです。

江戸時代、琉球からは薩摩を通して、将軍の代替わりごとに慶賀使が、琉球国の代替わりごとに謝恩使が送られます。一方で、薩摩藩は中国との朝貢関係を維持させ、黒砂糖の密貿易ルートとして利用しました。

松前アイヌの窓口

アイヌが居住する蝦夷地には、中世のころから豊富な海産物や木材の資源などを求めて和人商人が進出していました。津軽の土佐湊を日本交易の拠点として、現在の北海道南部に館が建設されています。

圧迫されたアイヌは、1457年に首長コシャマインを中心に蜂起しますが、蠣崎氏によって鎮圧されています。蠣崎氏は江戸時代初頭に松前氏に改姓します。そして、1609年に徳川家康から黒印状を授与され、蝦夷地での独占交易権を認められました。

蝦夷地も対馬と同じく耕地に恵まれませんでしたので、交易権が大名知行制における知行地の代わりとなりました。松前氏は、交易の場の知行権を与えるという形で家臣と主従関係を結んでいます。

海産物を加工した俵物は長崎出島に持ち込まれて中国への主要輸出品となるとともに、木材は江戸などで消費されました。また、商品作物に欠かせない肥料として出荷されたのがニシンから作られる〆粕です。18世紀後半には九十九里浜の干鰯のシェアを逆転しました。

日本版華夷秩序の形成

さて、江戸幕府の外交体制は、「日本版華夷秩序の形成」という観点からも捉えなせます。幕府は古代の朝廷と同じものを志向していたのです。


例えば、琉球から派遣された慶賀使・謝恩使は、民族衣装での道中の行列を強要されました。そこには、あたかも「異民族」が将軍に入貢しているかのような演出が見て取れます。


また、アイヌとの独占交易権を認めた松前氏に対しては、同時に「蝦夷の儀は何方江往行し候共、蝦夷次第たるべき事」と申し渡し、アイヌの行動の自由も保証しました。つまり、家康はアイヌ民族の保護者としてふるまったのです。


こうした幕府の姿勢に苦心したのが、朝鮮との仲介にあった対馬藩です。幕府は通信使を朝貢扱いし、一方で朝鮮は対等な立場であると考えていたので、双方のメンツを立てるため対馬藩は再三にわたって国書の書き換えを行っています。


これを「改ざん」「偽物」というのは忍びないでしょう。こうした涙ぐましい努力があったからこそ、荒波立てず穏便に済ますことができたのです。そして、対馬藩にとっても命綱の日朝貿易を継続することができました。


1635年には、対馬藩家老の柳川調興がながん年に渡る国書偽造を幕府に訴えるという事件・柳川一件が発生します。実情は柳川調興の主君宗義成に対するクーデターということだったようですが、3代将軍家光の御前で両者が意見を戦わせた末に、宗義成は無罪、柳川調興津軽に流罪とされました。


つまり、幕府はこれまでの経緯を不問とし、宗氏を仲介として朝鮮との関係を保つ道を選んだのです。日本版華夷秩序という「タテマエ」が、どのようにして守られてきたのかを幕府はちゃんと理解していたことになりますね。


ここに、中国の状況が加わります。1644年に明が滅び、「夷狄」満州族の清が北京に都を遷して全土を統一するという事態が、日本の支配者・知識人の自意識を満足させたことは想像に難くはありません。


儒学者で日本独自の古学を創始した山鹿素行は、著書「中朝事実」において、異民族に征服された歴史や王朝が交替した歴史のないことを根拠に、日本こそが「中華」であると主張しました。


歴史は繰り返すとよく言いますが、それは民族的な特性によって引き起こされることなのかもしれません。そして、その特性は意識されないほど私たちの身に染みついているのかもしれませんね。