読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

江戸時代の経済状態は大名の参勤交代から見れば分かりやすい

f:id:t-dicek:20170427190508j

江戸の経済を発展させた参勤交代

江戸幕府を特徴的な制度として参勤交代がありますよね。参勤交代はとは、将軍が大名統制する政策の一つとして、江戸と国元の往復を義務付けた制度です。


大名は原則として1年ごとに江戸と自分たちの藩を繰り返しました。そして、大名のの妻子には江戸への居住が命じられていました。


参勤交代自体は、江戸時代から始められた制度ではなく、その古くは鎌倉時代の番役にまで遡ることができますが、原型は戦国大名が家臣に行わせた本城勤仕であると考えられます。


その後、織田信長による大名の安土参勤や、豊臣秀吉による大名の上洛(山洛伺候)などが行われ、1635年、3代将軍徳川家光が発した武家諸法度で参勤交代として制度化されました。


参勤交代の最も大きな功績は経済発展です。大名の交通が増えることから、「将軍のおひざ元」である江戸が人口100万人の大都市に発展する要因にもなりましたし、彼らが参勤交代のルートとして使う五街道をはじめとした交通網のが発達を促されました。

一方で、大名にとっては経済的な負担が重くのしかかります。江戸に屋敷をかまえたり、多数の家臣を従えて往来したりと経済的な負担が大きく、教科書でも取り上げられている通り、大名が謀反を起こすための資金を作らせないようにするため、軍事力を低下させる役割を果たしたと言われています。


しかし、これらの効果については参勤交代を実施して得られた結果でしかなかったと言われています。徳川家光が参勤交代の制度を設けたのには、もっと別の理由があったことが最近の研究で分かっています。

米の価格が下落して財政難に陥っていた徳川吉宗の時代

1722年、徳川吉宗の時代、江戸幕府は全国の大名に対して石高1万石あたり100石の上げ米を明示し、その代償として参勤交代で江戸在にいる期間を半減する措置をとりました。


この上げ米制は8年後には廃止となり、参勤交代の江戸にいる期間ももとにもどされることになりますが、参勤交代制の緩和に対しては、幕府側の人々から、幕府と大名の関係に重大な変化をもたらす虞があるものとして批判的な声が多く挙げられました。


幕府が上げ米を発した歴史的背景があります。本来は臣下の立場にある大名から米を差し出させるというのは、幕府の対面にもかかわる問題です。上げ米を発した文面にも、「御恥辱を顧みられず仰せ出され候」とあったそうです。


そいうわけで、上げ米を発せざるを得ないといけない状況にほど幕府の財政難は深刻でした。上げ米によって幕府は年間19万石弱の、年貢高の1割以上を占めるほどの一時的な収入を得ることができました。


幕府の財政が悪化した原因としては、1657年に発生した明歴の大火復興事業、幕府直轄の佐渡金山・石見大森銀山などの生産量の激減、旗本・御家人の増加に伴う人件費の膨張などが指摘できます。特に、人件費は大きな負担でした。


享保の改革では、役職ごとに一定の役高を定め、在職時にのみ家禄の不足分を支給する足高の制を採用して、人材登用と人件費の抑制を図っています。


ですが、幕府の財政を最も苦しめていたのは、「米価安の諸色高」と呼ばれる当時の経済状況でした。


徳川吉宗が8代将として紀伊家から迎えられた18世紀前半頃には、元禄時代からの経済発展によって物価が上昇する一方、新田開発などによる供給過剰で米の価格が低迷していました。


幕藩の財政基盤は本百姓から徴収する年貢米に依存していましたので、米価の低迷は収入の減少に直結したのでした。


そこで、享保の改革では、大坂の堂島米市場を公認したり、新たな貨幣を発行して今で言うところの政策インフレを実施したりするなど、米価の引き上げと調整が図られました。吉宗が「米将軍」と呼ばれる所以です。

江戸時代は貨幣経済と百姓体制の矛盾

しかし、米価の低迷は一時的に生じた経済状況ではなく、本百姓と貨幣経済の矛盾という幕藩体制の根幹にかかわる本質的な問題が、そこに横たわっていました。


江戸時代の人口は約2500万人、そのうちの約8割が農民であったと推計されています。ですから、彼らの納める年貢が幕府・藩の財政を支えていました。これを本百姓体制と言います。


本百姓体制は、一面では貨幣経済を前提としていました。年貢米を換金するシステムがなければ、収入源にはなりません。それゆえ、諸藩は大阪に蔵屋敷を設置し、年貢米を蔵物として送って取引しました。


こうした年貢米の換金の必要性が、「天下の台所」大坂を中心とする全国流通網の形成に導いた一因です。


しかし、貨幣経済を支配する市場原理のもとでは、年貢の増税イコール収入の増加になることは限りません。諸藩が進めた新田開発によって、17世紀の100年間に耕地面積は約一六四万町歩から約二九七町歩と約2倍に拡大しました。(一町歩は約1ha)。


しかし、その間に人口はほとんど増加していません。供給過剰となれば価格が下がるというんは、市場原理の必然です。


年貢増徴のため行った新田開発が原因で米価が低迷します。このような形で本百姓体制と貨幣経済の矛盾が表面化し、幕藩の財政に重くのしかかったのが、吉宗の時代だったのです。

大名の所領は一時的な預かりもの

上げ米による参勤交代の緩和策が幕府と大名の関係に重大な変化をもたらす恐れがあると考えられていました。

ここでいう、「幕府と大名の関係」とは、豊臣秀吉の全国統一事業によって回復された「武士社会における統合の原理」、すなわち封建主従関係のことです。


将軍が大名に知行地を給付し、大名がその石高に見合った軍役を負担するという主従関係に基づいた、全国の支配体制を大名知行制と言いました。


ここで大前提となっているのは、将軍が全国的な領主権を握っている、平たく言えば全国すべての土地は将軍様のものだ、ということです。


徳川家康は幕府を開いた2年後の1605年、諸大名に国絵図と郷帳の作成・提出を命じて、自らが全国の支配者であることを明示しました。こうして、全国の領主権を握る将軍から、臣従する立場の大名に知行地が給付される、という枠組みが成立したのです。


ですから、「加賀百万石」などと言いますが、給付された知行地は大名のものになったわけではありません。大名知行制の下では、大名の所領は将軍から一時的な預かりものであると考えられていました。将軍様の土地はあくまでも将軍様の土地なのです。


17世紀前半には大名の配置転換である転封が積極的に行われましたが、幕府の自由裁量による実施を可能としたのもこの考えによります。


19世紀半ばの天保の改革で出された、上知令をご存知でしょうか。江戸・大坂に散在する大名や旗本の所領を返上させて、幕府の直轄地にしようとしたものです。代替地を与えることにしていたのですから、転封の一種と考えられます。


しかし、大名・旗本の猛反発を受けて実施できず、老中水野忠邦が失脚する原因となりました。本来は自由にできるはずの転封ができません。それは、幕府権威の失墜を如実に示す出来事でした。

江戸時代になれば戦争亡くなったことで将軍と大名の主従関係が弱まる

さて、大名が知行地が給された見返りとして負担することになっていたのが軍役ですが、天下太平の世が訪れた江戸時代には戦争などはありません。


1614年~1615年の大坂の役により豊臣氏が滅亡したことで、応仁の乱から続いた戦国の世は終わりを告げました。これを、武器を伏せ納めるという意味で、「元和偃武」と呼びます。


大名には、一定の兵馬を常備することが命じられ、江戸城の修築・河川の改修といった幕府が実施する土木工事の負担が課せられましたが、御恩に対する奉公としての明確に位置づけられるものを必要としていました。そこで、平時における軍役として制度化されたのが、参勤交代だったのです。


大名を江戸に呼びつけて将軍に頭を下げさせます。それは、将軍と大名の主従関係を確認する重要な儀式でもありました。


これで、上げ米による参勤交代の緩和策が、なぜ大名の関係に重大な変化をもたらす恐れがると考えられたかも、おわかりいただけたかと思います。


参勤交代の在府期間を半分にすること、それは、主従関係を半分に薄めるようなものだったのです。しかも、そうした概念上の問題にとどまらず、実質的な問題もありました。


在府期間が半分になれば、大名は2年間の4分の3を一年半を国元で過ごせることにあります。参勤交代は、大名を江戸に長く滞在させることで、大名に対する監視の眼が行き届かなくなる恐れがあったのです。


ですから、幕府も当初から上げ米は当面の財源不足を補う臨時の措置と考えていました。年貢増徴策が効果を表し、連年150万石前後の年貢収納高が確保されるようになると1731年に上げ米は廃止されています。