歴史を振り返っても、戦争は政府の都合でしかない。~古代の朝廷はどうして白村江の闘いに向かったのか~

Horinji (法輪寺)
百済考古遺跡

戦争への引き金は何か?

戦争というと、国の間で生じた紛争や対立を、部力を行使して解決しようとすることです。まさに今の北朝鮮の問題で、アメリカが北朝鮮へ軍事介入をしてしまえばそれは戦争と呼ぶことになります。


戦争で争われる問題は、領土問題や資源問題などから他国と利害が真に一致することなど本当にできないので、世界の秩序をバランスを取りながらまとまっている状況で、どんな国でも多かれ少なかれ他国との対立の火種を抱えています。


しかし、他国と意見が食い違うたびに戦争をしていたら、国力を無用に消耗させるだけに終わります。戦争が終わるきっかけのほとんどが、その国の経済力の低下するためです。なので、外交的な努力を重ねてお互いに妥協できる伝を見出そうとします。戦争とは止むに止まれぬ最後の手段であるべきなのです。


だとしたら、戦争への最後の引き金を引くものとは一体、何なのでしょうか?絶対に許せない一線を相手が超えてしまったから、が正解でしょうか

しかし、このありがちな短絡的な答えは、「なぜ絶対に許せないと考えるのか」という問いに対する答えになっていません。直接的な原因は相手国のそばにあったとしても、それを許すか許さないかは自国の側の問題です。


別に、「どんなときでも相手を許す寛容の精神が必要だ「閉じるなどと道徳的なことを言うつもりはありませんが、目を向けて欲しいのは、戦争の背景には地獄の状況がある、ということです。


経済的、政治的に余裕があれば、相手の気に食わない行動にも多少は目をつぶれます。逆に、国内に閉塞感が漂うような時などは、好戦的な世論が喚起されがちです。ファシズムなんてまさに典型的な例です。戦争とは国際的な問題であると同時に、国内的な問題であることに注意を要します。

今回の北朝鮮の核実験等も、結局は自国が経済的に不安定だから、経済的支援をしないと核やミサイルをぶっ放すぞ、といったところや、金政権の独裁政治を認めろよ、介入してくんな、と言った理由が根っこにはあると思います。


話を少し掘り下げていくと、日本と朝鮮半島の戦争の歴史は、私の知る限り、663年にまで遡ります。663年、日本の朝廷は親交のあった百済の復興のため朝鮮半島に兵を送り、唐・新羅の連合軍に大惨敗を喫しました。俗に言う、白村江戦いです。日本の朝廷は戦いに向けて1年近くもの準備を重ね、約27,000の兵を朝鮮半島に送り込んでいます。


この戦争、親交があったからとして、百済復興にかける日本の朝廷の熱意とは何だったのでしょうか。

対外的危機の中にあった日本の朝廷

日本の朝廷が積極的に百済を救おうとした理由を、国際的環境と国内的事情の両面から考えていきたいと思います。

まずは、国際的環境からいきましょう。実は7世紀の日本は、対外的な危機に曝されおり、激動の東アジア情勢がありました。


589年、隋の文帝によって中国が統一されます。それまでの中国は、3世紀半ばのいわゆる三国志の舞台、魏呉蜀による三国時代に始まって、それ以降も南と北に分かれての分裂と抗争が続いていました。


こうした中で北朝に現れた隋の文帝が南朝の陳を倒し230年の後漢滅亡以来、約350年ぶりに中国に統一王朝が成立したのです。


隋が中国国内を統一し、国内を安定させたら次にとる行動は一つしかありません。次は、周辺諸国に向かって国域の拡大を図ることになります。隋は、朝鮮半島南部に位置する高句麗に数回にわたって出兵を繰り返ししています。


聖徳太子による遣隋使にはこうした情勢に備え、隋のご機嫌をとるために派遣された側面もあったわけです。


しかし、隋も度重なる遠征による経済的疲弊が一因となって、698年に滅ぶことになります。隋に代わって唐が成立します。唐は律令制度を制定するなど国内の支配体制を強化するとともに高句麗新羅百済朝鮮半島の王に爵号を与えて冊封体制に組んだことが読み取れます。唐は隋の失敗を反省し、まず先に安定した内外の体制を築きあげようとしたのです。


中国伝統を統一し、貞観律令を整備した唐二代目の皇帝太宗の治世は、「貞観の治」と呼ばれています。こうして足場を固めた上で、周辺諸国への出兵を開始したのです。


唐が朝鮮半島で2番目に大きかった新羅と組んで最も領土の広かった高句麗に出兵した645年と言えば、日本では中大兄皇子(後の天智天皇)と中臣鎌足大化の改新を行った年です。


実は、この640年代前半には、朝鮮3国(高句麗新羅百済)でも、それぞれ同様のクーデターが発生しています。唐の脅威に対抗すべく、新体制を築こうという流れになりました。


中大兄皇子らには、唐から帰国した僧侶や留学生によって緊張を増した東アジア情勢が伝えられていました。対外関係に楽観的で、私腹を肥やす蘇我蝦夷・入鹿親子を滅ぼして、新政府の樹立に動いたのです。


中大兄皇子らには唐の足跡が間違いなく日本の朝廷にも届いている危機感あり、大化の改新はその危機感からなされたクーデーターでした。

先進的な文化を得る架け橋にあった百済

それでは、このように対外的な危機が高まる中でわざわざ百済の復興を支援するとことに、どのような意味があったでしょうか?


この当時、日本の朝廷と百済の王朝のなみなみならぬ関係がありました。現在の石上神宮奈良県)所蔵の七支刀は、その刻まれた名から、4世紀半ばごろに百済の王が倭の王送ったものと考えられます。大和朝廷百済には300年近くの付き合いがあったのです。


大和朝廷は4世紀後半頃から朝鮮半島南部に進出していますが、その目的は鉄資源の確保と大陸の進んだ技術や文物の摂取でした。朝鮮半島からは百済を経由して多くの渡来人が来日して、文章の作成や須恵器の生産などを伝えています。


高句麗好太王碑の碑文には、5世紀初めには倭軍は高句麗軍に破れて撤退したと記されています。その後、大和朝廷百済との関係を強化して、大陸文化を摂取する道を選びました。


6世紀には百済から五経博士などが渡来して、儒教を始めとする学問が伝えられています。また、仏教が正式に伝えられたのも百済からでした。


一方、百済らは新羅高句麗に挟まれて苦しい状況にありましたから、いざと言う時のために大和政権に軍事的な支援を求めていたと考えられます。このように、先進的な読み物を入手したい大和政権、軍事的な支援が必要な百済、両者の利害が一致して親密な関係が結ばれていたのです。


そのために百済の滅亡は日本の朝廷にとって、大陸へのルートが遮断されることになるだけでなく、強大な唐・新羅の連合軍に直接対峙しなければならない状況が生じたと言う大問題でした。


そこで、日本の朝廷は、朝鮮半島における拠点を確保するため、百済の復興に積極的に乗り出したのです。

大化の改新後、空中分解していた新政府

次に、国内的事情を考えましょう。

中大兄皇子蘇我の親子を討って新政府を樹立することに成功しました。翌年646年正月、4箇条からなる改新の詔を発表して国家建設の目標を示しましたが、その後ゴタゴタ続きで、お世辞にも順調だったとは言えません。


結局、この目標が実現したのは、半世紀以上がたった701年の大宝律令の時です。確かに全国的な戸籍の作成や班田収授の実施など、1年や2年で話できるものではないとは言え、さすがに50年はかかり過ぎではないかと思いますが、いろんなしがらみがあったように思います。


改革の実行が遅れた理由としては、朝廷の傍にいた畿内(大阪・奈良など)豪族の抵抗と改新政府の内紛が考えられます。痛みを伴う改革に、守旧派勢力がこぞって賛成と言うわけにはいかなかったのです。当時の朝廷の主要メンバーのほとんどが機内豪族であって、専制を振るっていた蘇我氏の排除には協力しても、その後はおとなしく政府の言いなりになるのではなく、抵抗勢力と化しました。


その結果、改新政府は空中分解の様相を呈します。中大兄皇子孝徳天皇と仲違いして都移した難波京を去り、右大臣の蘇我石川麻呂有間皇子は討伐されます。孝徳天皇の死後、中大兄皇子の母の斉明天皇が建てられましたが、その頃のいつ天皇が暗殺されるか分からない改新政府はかなり危機的な状況でした。


こうした中で国家建設に向けて人心を団結させるためには、イベント的な物が必要だったわけです。それが百済の復刻支援だったとは考えられないでしょうか。国内で争っている場合ではなく、戦争によって国民の目を海外に向けさせ、国威を発揚させるわけです。この手法は、あまり大きな声では言えませんが、現代において「世界の警察」を自称する大国が得意とします。

対外戦争には、そうした心理的な効果だけでなく、指揮命令系統が一本化・合理化され、あらゆる権限が集中させることができるといった面もあります。


有事を理由に反対意見を封じ込め、改革を一気に進めたい、政府側の思惑もあって、やや前のめりな感じが否めなかった百済の復興支援にはこうした思惑もあったんでしょうね。