源頼朝以降の鎌倉幕府将軍は北条氏の操り人形だった、なぜ北条氏が将軍にならなかったのか?

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源頼朝所縁の鶴岡八幡宮、彼は鎌倉幕府が妻とその一族に乗っ取られると予想していたのでしょうか?

将軍を影で操る北条氏

日本史の中では、実権を握っても組織のトップには立たずに、民衆の前で表立つリーダーを裏で操っていたケースが見受けられますよね。例えば、藤原氏摂関政治鎌倉時代の北条氏の執権政治等がそれに当たります。


なぜ、彼らは自らの実権を振りカザなかったのでしょうか。天皇をサポートする立場であった藤原氏の場合ならともかく、北条氏の場合には、自らも武家であり、源氏の血統が途絶えているわけですから、将軍に成り代わるチャンスはいくらでもあったはずですが。

1219年、鎌倉幕府の3代将軍の源実朝が不運にも将軍の後継者争いに巻き込まれ暗殺されてしまい、源頼朝から流れる源氏の正統な血筋断絶すると、鎌倉幕府は頼朝の妹の外孫にあたる当時たった2歳の藤原頼経を京都から将軍といて招き入れ、承久の乱を経て1226年に4代将軍となります。これが摂家将軍の始まりです。

このとき、鎌倉幕府は皇族から招聘を望んでいたのですが、鎌倉幕府を善しとしていなかった後白河上皇に拒否されています。皇族将軍は、のちに1252年に宗尊親王を6代目の将軍として迎え入れることで実現しました。


しかし、摂家将軍・皇族将軍を立ててまで、北条氏が将軍とならなかったのはなぜでしょうか?この誰もが抱く問いに対して、そもそも北条氏は将軍になる立場ではなかった、という考え方があります。

「執権」北条氏と摂家将軍・皇族将軍

北条氏がついた「執権」とは、実は鎌倉幕府の成立当初には存在せず、正式な職名ではなかったそうです。1203年、「尼将軍」北条政子の父である北条時政が、3代将軍に源実朝を立てて幕府の実権を握った際に、自らの地位を”執権”と称したのが始まりです。


その後、時政の子である義時が、1213年に政所別当ともに侍所別当を兼任したことで、執権の地位は確立しました。

こうした経緯を考えれば、執権とは元々政治を主として行う役職ではなく、あくまで「後見人」として立場が理解できます。執権とは、摂政や関白と同様に、具体的な決定権のある職ではなく、将軍との私的な関係でその権力を代行する者だったわけです。


このように、北条氏は幼少の摂家将軍・皇族将軍を立て、(彼らを甘やかして)名目上の存在していることで、「後はジィに任せた」、と一言言われたので「後見」としての立場から幕府の実権を握っていたことになります。


一方で、将軍とその臣下である御家人たちとは、封建的主従関係で結ばれていました。いわゆる”御恩”と”奉公”の関係です。


将軍は御家人に対して所領安堵や新恩給与を約束して、その見返りに御家人は鎌倉番役・京都大番役などの奉公(仕事)をします。


このように、将軍が自分たちの所領を守ってくれるからこそ、御家人は「いざ鎌倉」の精神で軍役に臨んでいたのです。有名な話ですが、「一生懸命」の言葉の由来は、鎌倉時代使われていた「一所懸命」から来ており、土地を守るために奉公する、と言う意味でした。


ですから、摂家将軍・皇族将軍がいかに幼少で形式的な存在だとしても、御家人にとっては封建的主従関係を結ぶ主君でした。御家人たちは、決して北条氏と主従関係を結んだ覚えはありません。反北条氏は、実権を握って好き勝手する北条氏に対して、北条氏から将軍を守ることを旗印に勢力を結集しようとしたこともあります。


一方で、北条氏側からすれば、将軍という形式上の存在はあくまで形式上の存在に押しとどめておかなければ自分たちの思い通りにできない、といった事情がありました。だからこそ、北条氏は、成人して扱いにくくなった将軍を京都に送り返し、つまり言うことの聞かなくなった将軍を謀反の疑いをかけて追放し、新たに幼少の将軍を迎え入れるということを、最後となる9代将軍の守邦親王まで繰り返していました。鎌倉幕府を創設した初代将軍・源頼朝、北条氏と政権を巡って激しく争った末暗殺された2代将軍・源頼家以降、歴代鎌倉幕府将軍はただの操り人形でした。

地方豪族に過ぎなかった北条氏

しかし、幕府の将軍を自分たちの意思で変えられるほどに絶大な権力を誇った北条氏が、どうして自ら将軍になることができなかったのはなぜでしょうか?


その答えは、日本中世の身分意識にあると思います。唐突に身分意識と言われても困ると思いますが、鎌倉時代の武士団には血筋によるピラミッド構造がありました。


平安時代、武士団の形成は各地の有力農民が一族を中心に武装したところから始まります。これを組織化していったのが、朝廷から派遣されて、一国の統治を委任されていた国司です。国司のなかには任期が終わった後も土着して、その土地の有力者となっていきました。


さらに、武士が各地で起こした反乱に際して、皇族の血筋を持つ清和源氏桓武平氏など尊い貴種が都から追捕師や押領師として派遣されてくると、各地の武士はその強さと血統の良さから武家の棟梁として仰ぎました。こうしてこの2大派閥によって、全国的な大武士団が形成されたわけです。


武士団には皇族武士(貴種)―国司―有力農民という血筋よるピラミッド構造が見て取れます。そして、天皇を頂点とした尊卑を捉えると言う身分意識は、武士に限らず中世社会全体に及ぶものでした。


それでは、北条氏はこのピラミッドのどの位置にあったのでしょうか。源頼朝が北条氏を頼った当時の北条氏は、一応は桓武平氏を始祖とする、伊豆を拠点とした在地豪族と名乗ることもありましたが、北条政子の父・時政以前の家系図はよくわかっておらず、平家物語でも北条氏のルーツは、「伊豆国の在庁人北条時政の子孫」という文言をわざわざ引いています。


在庁官人とは、国司が現地の有力者から任命した下級役人のことを指すので、北条氏は一地方武士に過ぎなかったと考えられます。しかも、頼朝・幕府草創期を支えた三浦氏・千葉氏と比較してもさらに格下の存在であるように書かれています。


そうした血筋のピラミッドの底辺にいる北条氏は、ほかの御家人武家の棟梁として認めるはずがありません。むしろ、摂関家天皇の血を引く貴種こそが、将軍としてはふさわしいと求められました。


また、征夷大将軍に任命する朝廷から見ても、北条氏は不適格でした。当時の北条氏のことを公家たちは「東夷ども」と言う風な卑下した呼び方をしていました。天皇家がこのように北条氏を卑下にし、血筋に対する強い意識が滲みでています。


御家人からも朝廷からも認められない北条氏は将軍になる術がなかったのです。(クーデーターを起こすことはできたかもしれませんが。)

将軍にならない方が自由である

北条氏にとっても敢えて将軍にならず、ことは自分たちが将軍になることよりも大きなメリットがあったと言う訳です。征夷大将軍はあくまでも天皇から任命される官職であって、天皇の直臣としての制約を受けることになります。天皇からの制約を避け、あえて将軍とならなかったことでフリーハンドの立場を確保したという見方の方が正しいと思います。


東京大学の日本史の入試問題でも、「鎌倉時代後期に絶大な権力を振るった北条氏が幕府の制度的な頂点である将軍になれなかった(あるいは、ならなかった)理由を述べよ」、と言う問題が出題されたことがあるそうです。


北条権力のユニークさは、頼朝以上の「貴種」を幕府の形式上の首長に据えた点にありますよね。三代将軍・源実朝の死によって頼朝直系の血筋が途絶えたとき、北条氏は摂関家から藤原頼経鎌倉幕府に迎え、さらに1252年には、ときの天皇の兄である宗尊親王を招く政策をとりました。「皇族天皇」は幕府滅亡まで存続します。これは天皇を頂点とする尊卑の観念を前提とするものでした。


鎌倉幕府中期以降の北条得宗を中心にさらに苛烈な専制を振るうようになりますが、得宗の実力に見合う幕府内での地位は将軍だったとしても、その血筋から将軍家となることを許されませんでした。なので、直接北条氏が京都に参上することもほとんどなかったと言われています。この様子を見ても、当時の天皇の権力に比べると幕府の権力が小さいことが良く分かりますよね。