西欧諸国に翻弄されながら開国を迫られた清、そして革命と日中対立へ突き進む

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イギリスなどに強制的に開国を迫られた清

乾隆帝時代も後半になると衰退の兆しが表れ始めます。イギリスやフランスなど海外からの圧力が加わるようになったのです。

乾隆帝は海外貿易の窓口を広州に限定していましたが、産業革命を果たしたイギリスが貿易の拡大・自由化を求めてくるようになりました。しかし、清は「広大な領土を誇るわが国に、輸入しなければならないものなどない」と、イギリスの要求を突っぱね続けました。開国を迫る西欧諸国に対して傲慢な態度を示していたのかもしれませんね。


イギリス本国では中国茶と中国製の陶磁器への需要が高まっており、代価を銀で支払うしかありませんでした。しかし、それではイギリスにとって貿易赤字が膨らむばかり。


そこで、イギリスはインドで麻薬の一種であるアヘンを大量生産し、それを中国に密輸して膨れ上がった赤字を補填するようになりました。アヘンの密輸量は増加し、赤字の補填どころから、莫大な利益を生むようになり、イギリスはますます中国へアヘンを輸出していきました。


今度は清が逆に貿易赤字に転じ、アヘン中毒社が急増してしまったことを受けて、清は林則徐を広州に派遣して、アヘン貿易の取り締まりを命令しました。そして林則徐がアヘンを没収し、焼き捨てたことをきっかけにアヘン戦争が始まります。


アヘン戦争では、近代化したイギリス軍の前に清は手も足も出せず惨敗を喫し、1842年に不平等な南京条約が結ばれ、広州だけでなく上海など5つの港が開かれることになりました。


強引にイギリス主導の自由貿易体制が組み込まれた清は、国内外でさらに危機的な状況を迎えます。アヘン中毒者の抑制がでない清中央部に対して農民たちが立ち上がり、太平天国の乱という内乱が起こる一方、領土内で英仏とアヘンを巡ってアロー戦争(第2次アヘン戦争)が勃発しました。


アロー戦争にも敗北した清はようやく西欧諸国を自国と対等な存在と認めて、総理各国事務衙門という外務省にあたる役所を設置するとともに、西洋の技術を取り入れた工業化に着手しました。これを洋務運動といいます。(ようやく対等な存在?近代化という観点では明らかに遅れをとっていたけれども。)


太平天国の鎮圧に活躍した漢民族の官僚たちが地方官となって、半官半民の鉱山開発や工場建設を進めましたが、そこには「中体西用」の思想が一貫して貫かれていました。西洋から導入するのは近代技術のみで、中国の思想・制度は変えないという意味です。


結局、洋務運動は中国社会全体を変えることはできず、漢人官僚が自己の地位を強化しただけに終わったのです。


一方、庶民層からは、キリスト教をはじめとする海外文化を排除しようとする運動が高まり、義和団事件へとつながりました。「扶清滅洋」を唱える義和団は北京の外国公使館を包囲しました。


時の最高権力者であった西太后は、当初は義和団鎮圧を命じていましたが、義和団の勢いを利用するようになりました。西太后は、義和団の勢いに便乗する形で列強に対して宣戦布告を行いました。これに対し、日露英仏独伊墺の8カ国が出兵し、清を降伏させ、義和団が鎮圧されました。

清打倒の革命はさらなる混乱期の始まり

義和団事件を契機に、海外事情に精通した中国の知識人・学生の中には、清を見限って、革命運動に投じる者が増えていきました。また、海外留学も盛んになり、同じ漢字文化圏であり、日本を留学先に選ぶ学生が圧倒的に多くなりました。そして、彼らの多くも革命派となり、日本でも革命運動を起こすまでに発展していました。


このとき革命運動の中心となったのが孫文です。武昌蜂起をきっかけに各地で反清蜂起が広がり、辛亥革命となりました。中華民国の建国が宣言されると、孫文は亡命先のアメリカから帰国して臨時大総統となりました。


このとき清軍の実力者であった袁世凱は革命の鎮圧を命じられていましたが、孫文から革命側に就くなら大総統の地位を譲ると誘われたことで、清を裏切り、宣統帝を退位させて清を滅ぼしました。

しかし、中国民国大総統となった袁世凱も長期政権には至らず1916年に死んでしまうと、袁世凱の後継者も育っておらず、中国政府は統制力を失い、軍閥が乱立する状態へと陥ってしまいます。


このような政治的混乱が続く一方、大都市では工業化や大学、新聞社などの設立が進んで近代的な民族意識が広がっていきました。


そして、第一次世界大戦中、日本が中国国内で権益を広げていくと、大衆の間では民族存亡の危機感が共有され、五・四運動が起こります。これを中国統一の好機と捉えた孫文は1919年、中国国民党を結成し 広州に広東政府を樹立します。一方、1921年にはロシアのコミンテルン指導のもとで社会主義中国共産党が結成されました。

中国国民党と中国共産党が合体と分裂を繰り返す

ソ連はイギリス・アメリカなどの帝国主義に対抗するため中国の民族運動の統一を図り、中国国民党に中国共産党と手を結ぶように働きかけました。1924年1月、共産党員が党籍を保持したまま国民党に入党する形で両党は合体し、第一次国共合作が成立しました。

しかし、孫文が死んでしまった後、中国国民党と中国共産党の間だけではなく、中国国民党内にも亀裂が入りました。


孫文を継いで国民党の指導者となった蒋介石は各地に乱立する軍閥を倒して中国統一を果たすために北伐を開始します。さらに、1927年上海でクーデターを起こし、共産党を弾圧したことから、第一次国共合作は解消されました。その後、再開された北伐は東北軍閥の張学良が国民党に加わったことで達成されたことになりました。

この張学良も争いの種を産みます。張学良父の張作霖を日本の関東軍に謀殺されたこともあり、自身が支配する中国東北部で日本に敵対する行動をしばしばとりました。これが日本の関東軍による満州事変へとつながっていきます。


蒋介石は日本よりも共産党打倒を最優先とし、日本との対決は国内を統一してからだと考えていましたが、共産党の主張する一致抗日に賛成する国内世論もありました。そこへ強い反日感情を抱いていた張学良が、クーデターを起こし、蒋介石の身柄を行使して説得。蒋介石に政策の大転換を約束させました。これを西安事件といいます。


解放された蒋介石共産党との内戦を止めて、対日運動に目を向けます。これをきっかけに日本と中国が激しく争うことになり、蒋介石日中戦争へと全力を傾けることになっていくのです。

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