漢民族の王朝を復活させた明、満州民族の清が現在の中国の基本を創る

f:id:t-dicek:20170416182555j

漢民族が自分たちの帝国を復活させる

モンゴルの元に代わって中国を統一したのが、朱元璋(のちの太祖・洪武帝)が成立させた明でした。朱元璋は金陵(現在の南京)に首都を置いて、漢民族による統治の復活を高らかに宣言しました。

そして、朱元璋は地主勢力の支持を得るために儒教を取り入れて、諸将に向けては仁義による政治を行い、民衆に対しては良民であることを力説し、支配体制を確立しました。


朱元璋自身は貧しい農家に生まれ、物乞いから這い上がった身分でした。朱元璋は自身のような極端な立身出世は乱世だからこそ許されるものとして、朱元璋は安定した社会を維持し、秩序を守る意識を民衆に浸透させるための手段として、儒教を活用しました。

儒教の教えとは、つまり主君には忠節を誓い、年長者には孝を尽くします。儒教の教えを根幹に据えることで、漢民族アイデンティティを取り戻すとともに、自身の立場を盤石にしようとしたのです。


朱元璋は、さらに冊封体制を再構築しました。朝貢貿易を復活させ、活性化させることで、国家による管理体制を確立し、貿易による利益を独占しようとしたのでした。例えば、15世紀から16世紀中ごろまで、日本の室町幕府との間で行われていた勘合貿易朝貢貿易の一つです。


冊封体制を築くため、明は民間貿易に厳しい制限を設けていましたが、それが北虜南倭の災いを招いてしまいます。


「北虜」とは、タタールオイラトといった中国北方に暮らしていたモンゴルの後裔民族のことです。彼らは明との自由貿易が許されないなら力ずくで欲しい物を奪うしかないとして、明領内への襲撃を繰り返しました。


そして「南倭」とは倭寇(海賊)のことで、前記倭寇五島列島や北九州の貧しい漁民などを主力としていましたが、後期倭寇の大半は中国沿海部の密貿易商からなっていました。

明は長く続かず、漢民族から満州民族の王朝・清へ

16世紀後半に入ると、豊臣秀吉朝鮮出兵への対応などで戦争出費がかさんだうえに、朝廷内の政治闘争が続き、さらには増税も行われたことで、明国内で立て続けに反乱が起こりました。


特に流賊と呼ばれる略奪集団が数多く生まれ、その中でも最大の勢力となったのが李自成率いる反乱軍でした。


同じころ、中国東北部でも森林地帯に居住し、農耕と毛皮交易を生業とする満州族(女真族)が勢力を拡大させ、ヌルハチによって後金が建てられていました。ヌルハチの子ホンタイジ内モンゴル制圧し、1636年に国号を後金から清へと改めました。そののち朝鮮を服従させ、さらに中国へ南下しようとしたところで、長城の山海関で明軍と対峙しました。


この間に李自成の反乱軍が勢力を増して当時の首都・北京へ入場し、明を滅亡させてしまいました。山海関を守っていた明の将軍・呉三桂は北京陥落を知ると、対峙する清軍に降伏します。


清軍は呉三桂の軍勢とともに長城の南側へ進出し、李自成軍を撃破して北京に入城し、中国の新たな支配者になりました。こうして漢民族王朝の明から、満州族王朝の清へと支配民族が交代しました。


明の残党は北京陥落後も、南方の各地で明の皇族を擁して抵抗活動を行いました。その中で最後まで抵抗を続けたのが鄭成功でした。鄭成功の抵抗に手を焼いた清は1661年に遷界令を発布し、沿海から20kmを無人地帯としました。住民を強制移住させることで、鄭成功のグループを孤立させたのです。


こうして大陸内の拠点を失った鄭成功は台湾に渡って、清への抵抗を続けました。鄭成功自身は1662年に死去しますが、台湾政権は1683年に平定されるまで清と争いを続けました。

現在の中国の原型を築いた清の全盛期

明の残党による抵抗運動を受けながらも、清は康熙帝雍正帝乾隆帝という名君が三代も続いたことから、最盛期を迎えることになります。


国内の抵抗勢力を取り除いた康熙帝は、ロシア軍の動きが活発になってきた北方へと目をやりました。黒龍江のアイグンとフマルに砦を築き、ロシア軍の南下を退けると同時に、外交交渉を進めます。

ロシアと清は、1689年、対等な立場でネルチンスク条約を結び、黒龍江上流のアングル河、シルガ河に注ぐゴルビッツァ川とスタノヴォイ山脈を結ぶ線が清-ロシアの国境となりました。


続く雍正帝もロシアとの国境交渉を引き続き行っていて、1727年にキャフタ条約を締結して西北方面の国境も定めました。


雍正帝の跡を継いだ乾隆帝は武勲で成功を収めます。国境周辺地域へ何度も遠征軍を派遣し、そのすべて勝利を収めたことから「十全老人」と名乗りました。


例えば、1759年に東トルキスタンの回部(イスラームウイグル人)を平定すると、そこを新疆(新しい領土)と命名しています。

こうして乾隆帝は中国史上最大版図を築き上げました。領民や民族構成において、現代中国の骨組みはこの乾隆帝の時代に形成されたと言えます。

朱元璋 皇帝の貌 (講談社文庫)

朱元璋 皇帝の貌 (講談社文庫)