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ペレストロイカ史上最大の大改革。社会主義体制が相次いで崩壊していく・・・

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※マルタ会談にて、ジョージ・H・W・ブッシュ(手前右)と会談するゴルバチョフ(手前左) パブリック・ドメイン

ポーランドで労働者運動の造反

ソ連からの圧力を受けて、ポーランドでは、政治・経済など、国民が様々な面で変革を求める声を高く上げていました。ポーランド社会主義国でありながらも1980年に政府と共産党のどちらの統制も受けない労働組合が誕生しました。この自主管理がなされた労働組合を「連帯」といい、またたく間に947万人の組合員を擁する大組織へと成長していきました。


この「連帯」の成長を脅威と判断したソ連ポーランドとの国境に軍隊を集結させ、ワルシャワ条約機構による合同軍事訓練という名目で、明らかなポーランドに威嚇行為を繰り返しました。ポーランドの情勢が東側陣営の結束を揺るがすような行為は許されない、ポーランドソ連に造反したときはハンガリーチェコスロヴァキアのときのように軍事介入を行うという警告と、世界中に映りました。


当のポーランドのヤルゼルスキ首相は、1981年12月、戒厳令を出し、「連帯」の活動家6774名の身柄を拘束し、ソ連からの疑い晴らし、事態を収拾しようと取り組みます。ただし、ヤルゼルスキ首相もそれ以上の弾圧を行わず、ソ連の軍事介入を回避しながら、同時にソ連の顔も立てようとしました。ヤルゼルスキ首相はかなりやり手の首相だったんですね。

ゴルパチョフとブッシュの共同声明、ついに冷戦が終わる。

ソ連でもアフガニスタン侵攻やアメリカとの軍備拡大競争などの財政負担が積み重なって、行政・財政にわたる改革は避けられない状態となっていました。


1985年ゴルバチョフ政権が誕生すると、ソ連は建国以来最大規模の政策転換に着手していきます。有名なペレストロイカです。国家建て直しの意味するペレストロイカをスローガンとして掲げ、国内に対してはグラスノスチ(情報公開)を初めて行い、国外に対してはアメリカや西側諸国との関係改善が図られました。


ソ連国内では、1986年12月にアフガニスタン侵攻に抗議して国内流刑されていた物理学者サハロフの国内流刑がとかれ、1988年4月にはロシア正教会との和解が図られるなど、言論や信仰の自由化が進められていました。


そして、1987年12月にはアメリカとソ連の間で中距離核戦力全廃条約が調印され、翌月5月にはアフガニスタンからソ連の軍隊が撤退されていったことによって、東西冷戦は本格的な雪解けムードを迎えました。


また、1988年2月のワルシャワ条約首脳会議では、ブレジネフ・ドクトリン(制限主権論)の無効が宣言され、ソ連は東欧社会主義国に対する干渉を放棄することになったのです。


さらに、1989年12月に地中海のマルタ島で開催された米ソ首脳会談、通常マルタ会談
に世界中の注目が集まりました。このマルタ会談による共同声明で、どのような言葉が世界に向けて発信されるのか。世界が固唾を呑んで見守るなか、ゴルバチョフとブッシュ(パパ)米大統領の間で確認されたのは「冷戦の終焉」でした。予想されたものではありましたが、全世界の報道関係者がこのニュースを興奮と歓喜をもって発信しました。

ペレストロイカの影響で次々の共産党第一党の独裁が崩壊

東ヨーロッパ諸国にもペレストロイカは大きな影響をもたらしました。1989年11月、冷戦の象徴となっていた「ベルリンの壁」が取り壊される、ついに歴史的瞬間を迎えました。ベルリンの壁の崩壊をきっかけに、ルーマニアをのぞくすべての東ヨーロッパ諸国で政治的に混乱することなく一党独裁体制が放棄されていきます。


ルーマニアチャウシェスク政権は強固な独裁体制を築いていたことから、まだその体制を維持できるという自信を抱いていたのでしょうが、経済破綻と独裁政治に対する国民の不満はチャウシェスクの想像を大きく超えるほど強くなっていました。


1989年12月、ハンガリー系の神父が強制退去させられたことをきっかけに反体制デモが発生しました。チャウシェスクはただちに武力鎮圧を命じましたが、これが火に油を注ぐ結果となりました。首都ブカレストで大規模な反政府デモが行われ、軍もデモに合流したことでチャウシェスクは失脚し、独裁政権は崩壊します。チャウシェスクは逃亡先で革命軍に捕まり、妻ととともに銃によって公開処刑される結末を迎えました。


しかし、1991年8月、ソ連共産党保守派によるクーデーターが起こります。改革路線を望まない保守派がクリミアで休暇中のゴルバチョフをその別荘に軟禁した事件です。このクーデーターはすぐに鎮圧され、ゴルバチョフも無事に解放されますが、この事件を境にソ連の解体が加速しました。そして、同年9月には、連邦国家評議会において、バルト三国ラトビアエストニアリトアニアの3カ国)の独立が承認されます。


ソ連はロシアやウクライナバルト三国中央アジアの国々など、複数の社会主義共和国による連邦国家という形をとっていました。そして、ついにロシアを含む各共和国がソ連からの離脱・独立を果たした結果、同年12月26日にソ連の解体が宣言されることになりました。

世界を震撼させた三日間

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