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雪解けか?緊張か?世界の注目を浴び続けたソ連とアメリカの駆け引き

固い握手を交わすフルシチョフとジョンFケネディ

フルシチョフによるスターリン批判に揺さぶれた東欧

1953年3月5日、大規模な粛清を繰り返し、人々を不安に陥れていたスターリンが死にました。スターリンに代わって、ソ連共産党第一書記に選出されたのはフルシチョフでした。フルシチョフは、これまでのスターリン体制を払拭するために、1952年2月の第20回ソ連共産党党大会で「スターリン批判」と呼ばれる報告を行いました。


スターリンによる党規範の破壊と党幹部の粛清、独ソ纎当初の外交・戦争指揮の誤り、無実の人々に対するテロルなどをすべて暴露して批判しました。フルシチョフは体裁として、あくまでスターリンに対する個人崇拝を批判していましたが、人々を恐怖で支配していたスターリンの権威に傷を負わせる結果になりました。


さらに「スターリン批判」の報告の中では平和共存政策、社会主義への未知の多様性なども説かれていました。1959年9月にフルシチョフがアメリカ訪問を行ったこともあって、ソ連の軟化姿勢が国内外に強く印象付けられることになりました。ロシアがアメリカに歩み寄ったようにも映り、東欧諸国ではこの出来事に強い衝撃を受け、ポーランドハンガリー社会主義体制を揺るがした事件も発生することになりました。

1956年6月、ポーランド西部の都市ポズナニで労働者によるデモが発生しました。ポーランド政府がデモの鎮圧に軍を投入したことから、大規模な衝突事件へと発展しました。この事件をきっかけに民主化運動が盛り上がりを見せましたが、ソ連による軍事介入の恐れも出てきたことから、労働者に一定の自由化が図られた程度で事態は収拾されました。


ハンガリーでは1956年10月、自由化を求める学生や市民によるデモが発生、治安部隊が発砲したことで大規模な暴動へと発展しました。これにはソ連が介入を行い、およそ半月後に全ての組織的な抵抗を沈黙させました。穏健派とみられていた事件当時の首相であるナジとその協力者はソ連に連行された上、1958年に処刑されました。さらに暴動への参加やソ連軍への抵抗など、何らかの容疑で処罰を受けた人の数は、当時のハンガリー成人人口の2割近くに昇りました。

フルシチョフケネディで第3次世界大戦を回避

フルシチョフによるスターリン批判と平和共存外交への転換は世界を驚かせましたが、1960年5月にソ連領内でアメリカ軍偵察機が撃墜される事件が起きました。ソ連アメリカ合衆国との和解の機運に早くも暗雲が立ち込めます。


翌年8月、東ベルリンから西ベルリンに亡命者が増えてしまったことから、ベルリンの壁が建築され始めると、東西両陣営の関係はさらに冷え切ったものになっていきました。


そして、ソ連アメリカ合衆国の関係にヒビが入った極めつけとなった原因が、1962年10月のキューバ危機です。


カリブ海の島国キューバでは1959年の革命により、カストロをトップとする社会主義政権が発足しました。そして、ソ連キューバに中距離ミサイル基地の建設を始めたことから、東西両陣営の緊張感が急激に高まりました。アメリカ本国のすぐ近くに東側のミサイル基地がある危険な状態を許すわけにはいかず、アメリカは艦艇183隻、軍用機1190機を動員してキューバに対する海上封鎖を実施しました。


キューバから西半球に対する攻撃があれば、それをソ連によるアメリカへの攻撃とみなし、ただちに報復行動をとり、核兵器には核兵器で応える。アメリカがこのような強硬姿勢を示したことで、まさに一触即発の危機が生じ、全面核戦争という最悪の事態が現実味を帯びたのです。


世界の視線がアメリカとソ連の一挙一動に集まっているなか、国連緊急安保理理事会などを通じて、アメリカのケネディ大統領とフルシチョフの間で交渉が続けられました。ケネディ大統領とフルシチョフの尽力によって、米ソの核戦争はギリギリのところで回避されました。

ソ連によるアフガニスタン侵攻が泥沼化していく・・・

米ソの核戦争を回避したフルシチョフでしたが、スターリンの恐怖支配までには至りませんでしたが、権力集中、同士に対する叱責や暴言や外国での暴言等で反フルシチョフ派が出てきます。


フルシチョフの後任に選出されたのは、保守派で反フルシチョフ派のブレジネフでした。ブレジネフ政権下のソ連は政治的には安定しました。しかし、経済的には振るわず、停滞期となります。


ソ連は中国との関係が悪化してしまいますが、ブレジネフはアメリカとの緊張緩和を模索することになりました。1970年から戦略兵器制限交渉(SALT)が本格的になり、1927年5月の米ソ首脳会談で調印へとこぎつけました。緊張緩和(デタント)への第一歩が踏み出されたのです。


このころ、社会主義国家のチェコスロヴァキアでは経済が低迷していたことから、自由化・民主化に向けて改革を要求する運動が盛んになっていきます。これが「プラハの春」の始まりです。


チェコスロヴァキア作家連盟が言論の自由を求める声明を発表して、検閲の廃止、結社の自由、スロヴァキアの自治要求、教会の復権など、民主化を求める声が次々に起こりました。その結果、強権保守派から穏健改革派へという政権の交代が実現されました。


プラハの春」による改革は「人間の顔をした社会主義」というスローガンが掲げられると、社会主義という枠組みを残そうとするものでした。


しかし、やがて知識人たちが「二千語宣言」を発表するなど、共産党体制そのものを否定する動きが出始めます。チェコスロヴァキアの改革に対して警戒感を強めたソ連は、1968年5月から6月にかけて、チェコスロヴァキア国内でワルシャワ条約機構軍による軍事演習を実施しました。


しかし、チェコスロヴァキアではソ連からの圧力を受けてもなお改革が進められたことから、同年8月20日、一度は撤収していたワルシャワ条約機構軍5カ国50万人の兵力が再びチェコスロヴァキア領内に侵攻し、なかば強引にプラハの春を終了させました。


さらに、ソ連は1979年にアフガニスタン侵攻を開始します。しかし、アメリカがベトナム戦争で陥ったように泥沼に、ソ連もはまることになりました。戦場で劣勢に立たされたうえ、国内外から強い批判を浴びる事態となったのです。デタントソ連アフガニスタン侵攻と共に終わりを迎えました。

そして、アメリカのレーガン大統領は人工衛星を使ったミサイル迎撃計画を打ち出すなど、軍備拡大路線を推し進め、アメリカはソ連とどちらが先に息切れするのか体力勝負を挑み始めました。しかし、このときのソ連は既に国家財政が息切れ寸前というギリギリの状態でした。

危機の年―ケネディとフルシチョフの闘い (下)

危機の年―ケネディとフルシチョフの闘い (下)