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レーニンの後継者争いから、第2次世界大戦そして冷戦の始まりへ

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※アメリカ、イギリス、ソ連の首脳が一堂に会した初めての会談になったテヘラン会談の記念撮影、左からスターリンルーズベルトチャーチルが並んでいる。

レーニンの後継者はトロッキーかそれともスターリン

社会主義革命を成功させ、ソヴィエト連邦の樹立も果たし乗り乗っていたレーニンでしたが、その体は病魔にむしばまれてしまいました。ボリシェビキ内部ではレーニンの後継者の座をめぐり、スターリンvsトロッキーによる暗闘が始まっていました。


レーニンからすれば、後継者と呼ばれる2人にはそれぞれ欠点がある、と手紙に書き記しています。

スターリンには、強大になったソ連の権力を慎重な姿勢で使いこなせるかどうか確信が持てません。レーニンはスターリンが暴君化することをずっと危惧していたと言われています。


一方のトロッキーは、レーニンに対して若く自信を過信する傾向が強すぎる点が心配でした。また、党歴の浅い新参者であるトロッキーでは、ソヴィエト古参党員の反発を招きかねないという不安もありました。


結局、レーニンはスターリンの資質を疑う気持ちが強く、病床で口述筆記させた遺書にスターリンを書記長職から解任する要求を明記させたと言われています。


このときレーニンが再び党大会の席に復帰することができていたら、トロッキーによるソ連体制が実現できたかもしれませんが、1923年3月、レーニンは病状が悪化し、職務への復帰が絶望的なものになってしまいます。翌年、1924年1月21日、レーニンが死んでしまいます。


後継者はスターリンなのか、トロッキーなのか。レーニンの遺言通りにはいかず、この後継者争いはスターリンが勝利し、敗れたトロッキーは党から除名され、メキシコに亡命することを余儀なくされます。


遂にソ連のトップとなったスターリンですが、1932年~1934年にまたがる大飢饉という問題に直面します。当然、トップであるスターリンの責任を問う声も多くありましたが、スターリンは自身に反対する者、批判する者を徹底的に粛清する恐怖路線を突き進みました。まさにレーニンが危惧していた通り、スターリンが暴君化してしまうのです。

資本主義陣営と社会主義陣営に割って入った第3勢力ファシズム

一方のドイツでは世界恐慌による不況などに耐えかねた国民の不満を背景に、ナチス=ドイツが誕生します。ナチス=ドイツの誕生により、ファシズム陣営が資本主義陣営と社会主義陣営の対立構図に割って入ってきました。


イギリスやフランスは、当初ナチス=ドイツに対し、なるべく刺激しないような政策を取り続けました。


しかし、ソ連はそのようなイギリス・フランスに不信感を募らせてドイツとの本格交渉を開始、1939年8月に独ソ不可侵条約を締結します。そもそもイギリス・フランスはソ連ナチス=ドイツが先に衝突してくれればと考えていた節があり、その思惑が大きく外れる結果となりました。


ソ連と秘密議定書を交わした同年9月1日、背後を突かれる心配がなくなったこでドイツはポーランド領域に侵攻します。これを受けてイギリス・フランスがドイツに宣戦布告したことで、第二次世界大戦が始まりました。


ドイツと不可侵関係にあるソ連は、ポーランド東部やフィンランドバルト三国へ軍を進めます。イギリス・フランスにとって、この大戦においてソ連は味方なのか敵なのか、判然としない不気味な存在となっていました。


しかし、ソ連とドイツの蜜月は長くは続かず、1941年6月、ドイツが不可侵条約を無視してソ連に侵攻します。独ソ戦が開始されたのです。


ソ連は1941年4月に日本と日ソ中立条約を結んで、東西両面で戦争となるのを避けていました。しかし、それ以上の準備はほとんど整えることができず、ドイツに対しても劣勢に立たされます。


ロシアが劣勢に立たされながら、ロシアはキエフを失い、レニングラードまで攻撃にさらされます。


しかし、1942年7月から翌年2月にかけてお紺割れたスターリングラード攻防戦を機に戦況が変わり、アメリカがイギリスと共闘関係も築いたことでソ連が攻勢へと転じました。そしてついにソ連軍はドイツの首都ベルリンを攻略し、ヒトラーを自殺に追い込みました。


ヒトラーが自殺したことを受けて、ドイツは降伏し、西から進んできたアメリカ・イギリス・フランス、そして東から侵攻してきたソ連の4カ国の占領下に置かれることになりました。


ドイツの戦後処理、占領政策で米英仏ソと折り合うことはなく、ドイツはドイツ民主共和国(東ドイツ)とドイツ連邦共和国(西ドイツ)の2つの国家に分断されて再出発を図ることになりました。

第2次世界大戦の終結は冷戦の始まりでもある

第2次世界大戦中のソ連軍の東進は、社会主義圏を広げることでもありました。ドイツなどと戦いながら、ソ連は東ヨーロッパ全域を占領してソ連の影響下に置き、戦後独立を達成・回復する国に各国共産党による一党独裁体制を築かせていったのです。

こうして、ポーランドルーマニアチェコスロヴァキアハンガリーブルガリアアルバニアに加えて、ドイツから自力解放を果たしたユーゴスラヴィアでは社会主義国家として独立を果たしています。


そして、第2次世界大戦の復興も始まらないうちから、ソ連率いる東側陣営(社会主義国)とアメリカ・イギリス率いる西側陣営(資本主義国)の対立が表面化していきます。


退陣したばかりのイギリス前首相チャーチルが「鉄のカーテン演説」を行ったのは1946年3月のことで、1949年にはアメリカと西欧諸国が軍事同盟である北大西洋条約機構(NATO)が結成されました。


NATOに対抗すべく、1955年にソ連も東欧諸国との間で軍事同盟のワルシャワ条約機構を結成して東側陣営の協力関係を強くしていきました。


こうして、第2次世界大戦後の国際秩序はアメリカ一極ではなく、アメリカとソ連の対立が軸になることが鮮明となります。ただし、アメリカとソ連が直接戦火を交えることはなく、代理戦争やスパイ合戦に終始したことから、いつしかこの戦いは冷たい戦争と揶揄されるようになり、“冷戦”と呼ばれました。


レーニンが生きていたら時代は大きく変わっていたかもしれませんね。

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