ソ連の下で苦汁をなめ続けたウクライナ

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急激な改革を進めるツァーリズムに対して労働者の不満が爆発する

アレクサンドル2世の大改革に続いて、19世紀末から蔵相ヴィッテによる経済的・産業的な側面にも改革が強引に推進されます。ヴィッテによる改革は重工業を中心とした工業化を推進させる改革で、これは一定の成果を挙げて高度経済成長を実現しました。


しかし、産業化と表裏一体ではありますが、急激な産業化により労働者の賃金や勤務体制への反映が遅れ、悪条件できつい労働を強いられている労働者のストライキが起こるなど、社会のひずみはより一層深刻化させます。


労働者層を中心にからツァーリズム(皇帝による専制政治)に批判が集まり、さらに第1次世界大戦に突入すると、国内の疲弊は頂点に達し、二月革命が起こり、この革命によってツァーリズムが倒されて、1917年レーニンをトップとするソヴィエト政権が発足します。


このとき、のちにロシアと激しく衝突することになるウクライナが登場します。ウクライナロシア革命の混乱が続くさなか、1918年、ロシアからの独立を宣言します。しかし、独立を宣言してすぐにロシア・ソヴィエト軍ウクライナのへ侵攻を開始し、1992年に成立するソヴィエト連邦を構成する国家の1つに組み込まれてしまうのでした。


ここで、少しウクライナについて補足しておきましょう。そもそもウクライナ民族が形成されたのは、15~16世紀の頃だと言われています。西ヨーロッパの侵攻されていたポーランドリトアニアから逃げてきたスラヴ系農民がモンゴル系遊牧民と融合して生まれたウクライナ・コザックが、ウクライナ民族の出発点であると言われています。様々な民族の血が混ざっており、整った容姿をしている美男美女の多い国としても有名ですね。


16世紀に、ウクライナ・コザックがドニエプル川周辺のコザックの生活圏を指して、ウクライナと呼ぶようになりました。しかし、ウクライナでもロシアとポーランドの国境地域にあり、戦争が絶えず、1667年以降、ドニエプル川を境に東西に分割され、西はポーランド領、東はロシア領とされました。

ソ連とドイツに振り回されるウクライナ

その後、ソ連スターリンによる独裁政権にあったとき、ウクライナは惨憺たる状態になりました。ソ連による強引な農業政策が失敗して大飢饉を招き、1932年~1933年にだけで100万人が飢餓で命を落とすことになりました。さらに、スターリンは自身の政党に反発するウクライナ共産党員の37%にあたる17万人を粛清しました。この粛清によって、当然、ウクライナ人の間にはソ連に対する疑心から反露感情や反共産党感情が芽生えることになります。


さらに、ウクライナにとって悲惨な状況が続きます。国境が複雑であると、争い事が尽きません。

第2次世界大戦がはじまると、1914年6月にドイツ軍がソ連と交わしていいた独ソ不可侵条約を破棄し、ソ連領内に侵攻を開始します。虚を突かれ、準備不足のソ連軍はドイツ軍に蹴散らされ、独ソ開戦からわずか4カ月でウクライナ全土がドイツ軍に占領されてしまいます。


当初、反露感情を頂いていたウクライナではドイツ軍を歓迎するムードもありました。しかし、ドイツ軍はウクライナを食料と労働力の供給源としか見ていなかったのです。ウクライナの若者が手あたり次第に戦場に強制連行されたことで、ドイツ軍に力を貸すものより、パルチザン活動(対独武装抵抗活動)に身を投じる者の方がはるかに多くなります。


そして、1943年2月、スターリングラード攻防戦ソ連がドイツ軍の侵攻を食い止め、反撃を開始しました。ソ連が1944年5月には東ウクライナクリミア半島を奪還し、同年8月には西ウクライナソ連の支配下に組み入れられました。


この結果、ウクライナ全域でソ連による共産党支配が復活することになります。

想定されていなかったソ連の解体でロシアとウクライナ間の争いが再燃する

第2次世界大戦が終結し、米ソによる冷戦時代に入ると、1954年にクリミア半島がロシアからウクライナへと移管されることになります。当時はソ連が解体することになるなど、誰も予想もしていませんでしたから、クリミア半島ソ連の一部であるウクライナへの移管することに懸念や反対を示す人はほとんどいなかったそうです。


しかし、ソ連一党独裁体制が限界を迎え、1980年代後半からペレストロイカが開始されます。1991年12月には、ウクライナでもソ連から独立をめぐる住民投票が実施され、90.2%が賛成票と言う結果となり、ウクライナの独立が宣言されました。


当然、独立地域に移管されたクリミア半島ウクライナの国土として含まれていましたが、この時点でクリミア州の人口の67%がロシア人でした。次に多いのがウクライナ人で、先住民とも言えるクリミア・タタール人は総人口の13%という少数派となっていました。


ロシアとウクライナがそれぞれ別国家になるなど、ほんの数年前までは想定外であったので、多くの問題が矢継ぎ早に発生します。ウクライナに配置されていた核兵器をロシアに返還する場合、ロシアとウクライナどちらがその移送費を負担するのか、ロシアとウクライナが共有していた黒海艦隊をどのように分割するのか、ウクライナクリミア半島にあるセヴァストーポリ軍港はどちらのものになるのか、ウクライナに住むロシア人・ロシアに住むウクライナ人に二重国籍は認められるのかなどといった問題です。


特にセヴァストーポリ軍港は不凍港を求めてきたロシアにとって、外交に出るための重要な拠点であり、黒海艦隊は動向に駐留する重要戦力でした。そのため、ロシアはセヴァストーポリ軍港はウクライナ人に決して渡したくはないわけです。


一方、ウクライナにしてもクリミア半島が自国の領土内である以上、タダでロシアに渡す気はなかったのです。何気なく行われたクリミア半島の移管が、大きな問題の火種を残すことになってしまったのです。。。

この続きはまた別の機会に。

ウクライナ危機の真相 プーチンの思惑 Wedgeセレクション

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