不凍港を目指して領土拡大を目指すロシアの歴史

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ロシア念願の土地、クリミア半島を奪取

ロシアもオランダ・イギリスを理想のモデルとして様々な改革を行って、押しも押されもしない強国につくりかえる、こうした理念に基づき、時のロシア皇帝ピョートル1世はロシアの西洋化を目指します。ピョートル1世の時代に正式に国の名称としてロシア帝国が使われるようになります。


ピョートル1世は即位後間もなくは好戦的な戦略を取り、大航海時代を謳歌する西欧諸国に対抗するべく貿易港を得るために隣国スウェーデンにふっかけて北方戦争を起こします。北方戦争ロシア帝国スウェーデンを破り、バルト海沿岸部獲得し、新都サンクトペテルブルクを建設しました。それまで内陸国だったロシアが港を手に入れ、大航海時代を謳歌する西洋諸国に対抗するための歴史的瞬間です。


しかし、ロシアがもっと強くなるためには、イギリスやオランダと同じように外洋貿易を行う必要があります。しかし、バルト海沿岸部の港は冬になると凍ってしまい、使えなくなってしまいます。


だから、ロシアには冬でも凍らない港(不凍港)が必要となりました。不凍港を得るために、ピョートル1世に続く歴代ツァーリたちは領土拡大政策の中でも、特にトルコ方面の南進と極東方面の東進に力を入れていきました。

ロシアの南下政策で、一定の成果を挙げたのがエカチェリーナ2世です。まず、エカチェリーナ2世は、18世紀後半にプロイセンオーストリアと組んでポーランド分割を行いました。これによって、ロシアはベラルーシ人とウクライナ人が数多く暮らす土地を手に入れました。


さらにエカチェリーナ2世はオスマン帝国との戦争を繰り返し、黒海に面したクリミア半島を獲得しました。そして、さらにボスポラス海峡ダーダネルス海峡におけるロシア商船の自由通行権と、オスマン帝国領内に暮らすギリシア正教徒の保護権を得ました。条件付きではありますが、念願の不凍港である黒海から地中海へ、そこからさらに大西洋へと抜ける航路を確保できたのです。

西欧列強の壁がロシア拡大に阻む

クリミア半島は気候もよく、一大農産地になりうる土地でした。そこで、エカチェリーナ2世は同地を「新ロシア」と命名しました。そして、セヴァストーポリ軍港の建設、黒海艦隊の創設、農業・工業の振興、ロシア人とウクライナ人の入植などを推し進めました。急ピッチでクリミア半島のロシア化が進められたのです。


クリミア半島を得たロシアにとって、次の狙いは、ギリシア正教徒の保護を大義名分として、バルカン半島へ進出することです。バルカン半島オスマン帝国の統治下にありましたが、バルカン半島に住んでいた南スラブ系民族の中にはギリシア正教徒がたくさんいたのです。


そこで、ロシアはギリシア正教徒の保護を名目にオスマン帝国との戦争を開始しました。クリミア半島を主戦場としたクリミア戦争です。


成長著しいロシアが、衰退の一途を辿っているオスマン帝国を恐れる必要がありませんでした。しかし、イギリスとフランスは、ここでロシアの影響力が高まるのはよくないと考え、オスマン帝国を支援してロシアとオスマン帝国に参戦しました。さらに、イギリスとフランスは、イタリア統一運動に対する支持獲得を目的として、サルディーニャ王国もオスマン側に加わり、ロシアをに抵抗しました。


ロシアとしてもイギリスとフランスの両方を敵に回してはさすがに分が悪く、激戦だったセヴァストーポリ軍港も陥落し、ロシアは敗北を喫します。1856年3月のパリ条約によって、ロシアの南下政策は一時取りやめとなりました。


クリミア戦争の敗北は、ロシアにとってイギリスとフランスに比べて国力の差が劣っていることを嫌というほど痛感させていました。産業革命によって工業化が進んでいたイギリス・フランスとは、大きく水を開けられていることが分かったのです。そして、イギリス・フランスに追いつくため、ロシアはアレクサンドル2世のもとで、大改革と総称される革新的な政治が開始されます。


ロシアの目標は、農奴解放と鉄道建設です。農奴を開放し、鉄道を建設することで、自由主義化、資本主義化を進めて、ロシア国内の経済成長を果たそうとしたのです。


アレクサンドル2世による改革は、1860年代末から徐々にその成果が現れてきます。ロシア国内で企業設立がブームとなって、鉄道建設も着々と進みました。機関車とレールをつくる必要性から製鉄・機械をはじめとする重工業が盛んとなり、それが牽引役となって石油業、綿工業、製糖業など、ロシアで様々な産業が急成長を遂げました。

ロシアは強敵の少ないアジアに拡大を続け

イギリスやフランスに南進を止められてしまったロシアは、東進に注力し始めます。具体的にはカフカス中央アジア、さらには極東への進出し、日本海を目指しました。


カフカスとは黒海カスピ海に挟まれた地域のことで、ジョージア人やチェチェン人などのコーカサス系民族、アゼルバイジャン人などのテュルク系民族が住んでいました。


ロシアは1801年にグルジアを併合し、1859年にはチェチェン人を制圧して、カフカス全土を平定しました。グルジアから石油が発見されたことで、ロシアにとってはカフカスは重要な土地となっていきました。


ロシアの中央アジアへの進出は、植民地の獲得が目的でした。これにはインドは最も重要な植民地とするイギリスが黙っているはずがありません。イギリスは表は外航船で、裏では諜報戦でロシアに対抗します。


こうしてイギリスとロシアの間で展開された表裏両面の暗闘は、チェスのゲームを彷彿させたことから「グレート・ゲーム」と呼ばれています。


ロシアは極東で1860年の北京条約によってウラジヴォストークを獲得し、ロシアは東方の不凍港を入手しました。1884年には朝鮮王朝と修好通商条約を締結し、1896年には清王朝から東清鉄道敷設権、1898年には旅順・大連の租借権を獲得するなど、東アジアへの強い影響力を及ぼすようになっていきました。


このようにロシアの領土拡大政策は順調に見えましたが、その一方で急速な大変革は社会のひずみをもたらし、革命の足音を近付けることにもなってしまったのです。その話はまた別の機械に。