辺境の地から第3のローマを目指すロシアの起源

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モンゴル帝国あら臣従要求の手紙を破り捨てるイヴァン3世(引用元:Wikipedia)

ロシアの始まりはモンゴル人に支配される日々からの脱却

現在のロシアは、世界最大の国土を持つ国家ですが、ロシア建国当初の領域はウラル山脈から西のヴォルガ川、ドン川、ドニエプル川流域に限られていました。


この地域はルーシとも呼ばれ、諸公国による割拠が続いていましたが、1237年、チンギス=ハンの孫バトゥ率いるモンゴル軍に支配されてしまいます。モンゴル軍は1242年にルーシから撤退しますが、東に帰ったわけではなく、ヴォルガ川下流域に1243年キプチャク=ハン国を建国し、ルーシの諸公国を支配し続けました。モンゴル人の支配をうけたという意味で、この期間はタタールの軛(くびき)と呼ばれています。
タタールとはモンゴル人の別称


そのルーシはモンゴルの支配を受けながら、モンゴル帝国から駅逓制や外交術などを吸収して力を蓄えていました。ルーシの中心地はノヴゴロドからモスクワへと移り、諸公国の中からモスクワ大公国が大きく抜きんでるようになります。このモスクワ大公国が、現在のロシアにつながっていきます。

モスクワ大公国念願のモンゴル人の支配から脱却はイヴァン3世の治世の時代に訪れます。この当時のモスクワ大公国を支配していたキャプチャク=ハン国は内輪揉めが続いたことで、1枚岩にまとまっていたわけではなく、いくつかの勢力に分裂していました。モスクワ大公国を実質的に支配していたのは、キャプチャク=ハン中の勢力の1つである大オルダーでした。


イヴァン3世は大オルダーへの貢納を止める決断を下してモスクワ大公国の独立を目指します。当然、支配していた大オルダーはモスクワ大公国の支配権を回復するために軍をモスクワへと進めてきます。両軍はウグラ川を挟んで対峙しましたが、大オルター側の内紛が原因で本格的な戦闘にはならず。大オルダー軍を撤退させました。イヴァン3世は大オルターを撤退させたことを大勝利と捉えて「タタールの軛」の終わりとみなし、1480年に独立を宣言します。

政治だけでなく、宗教でも独立を果たす

モスクワ大公国がモンゴル人の支配をはねのけ少し前、ロシアは宗教上の独立も成し遂げました。


ロシアはもともとキリスト教国で、ギリシャ正教会に属していました。ギリシャ正教会コンスタンティノープル総主教座を頂点とし、ロシア正教会ブルガリア正教会、セルビア正教会などというように民族ごとまた枝葉があり、それぞれの教会で独立して信仰する形をとりました。


しかし、モンゴルの支配を受けていた頃のモスクワ府主教座はコンスタンティノープル総主教座の監督下に置かれ、歴代の府主教はすべて総主教座から派遣されてきたギリシャ人が務めていました。


15世紀中頃になり、モスクワ大公国の政治的な独立が現実的になってくると、宗教的にも独立しようと言う機運が高まりました。コンスタンティノープル総主教座はビザンツ帝国の首都にありましたが、このころのビザンツ帝国オスマン帝国の攻勢を受けて、息も絶え絶えという状態だったからです。


こうした情勢の中、イヴァン3世は次のモスクワ府主教が派遣されてこなかった隙を突いて、自分たちだけでロシア人のモスクワ府主教を選出しました。事実上の教会独立で、1448年、ロシア正教会の成立が宣言されます。

第3のローマという大きな理念を掲げて

1453年にビザンツ帝国が滅びると、イヴァン3世はビザンツ帝国最後の皇帝の姪を妃としていたことから、ロシア語で皇帝を意味するツァーリの称号を使い始めます。


さらに、イヴァン3世の後を継いだヴァシーリー3世は「2つのローマは没落し、第3のローマたモスクワはここにあり、第4はありようがない。」というある書簡の一節をきっかけとして、モスクワをローマ、コンスタンティノープルに続く、「第3のローマ」とする理念を掲げました。


モスクワ大公国こそが古代ローマ帝国ビザンツ帝国の正当な後継者である、この主張はロシアが強国を目指すという意思表示に他なりません。さらに、1589年、モスクワ府主教座を総主教座に昇格させますが、これは強国になるための事前準備として、宗教的な権威を高める狙いがありました。


ただし、イヴァン3世の時代は、モンゴル人からの支配から独立を果たしたばかりで、まだまだ強国と呼ぶには程遠い状態でした。領土はウラル山脈から西側だけ、それも気候条件の厳しい北側の地域に限られます。国を発展させるには、より価値の高い土地を獲得するしかない、そのための手段としてイヴァン3世以降のツァーリたちは領土の拡大に努めます。


ヴァシーリー3世の後継者であるイヴァン4世は、大貴族(ルーシ諸侯)を抑えて、中央集権化を進めます。それと同時に領土拡大を目指して、モンゴル人たちが勢力を失いつつある隙をついて、ヴォルガ川流域のカザン=ハン国と同川下流域のアストラ=ハン国を併合し、シベリア進出の足掛かりを築いていきました。


ロシアにとって幸福だったのは、気候が厳しく、わざわざ辺境のロシアへと攻め込んでくる他勢力がほとんどいなかったことです。このため、モスクワ大公国大航海時代を謳歌するヨーロッパの一流国に比べればまだまだ弱小国であっても、ひたすら領土拡大に専念することができました。


※第3のローマを目指したヴァシーリー3世の意向はプーチン大統領にも引き継がれています。