レーニンと社会主義国家・ソヴィエト社会主義共和国連邦の設立


赤の広場を行進するボリシェヴィキ

貧困層の救済、労働者の理想国家を目指す社会主義

産業革命は火の使用や文字の発明に匹敵するくらい大きな人類史上の転機となりましたが、全ての人間に幸福を約束するものではありませんでした。


農業中心の時代よりも貧富の差が激しくなってしまい、裕福な人が増える一方で生きていくのがやっとというような貧困層も生み出してしまいました。


社会主義は、労働者の貧困層を救済しようという思想から始まりました。政府がこの悲惨な状況を放置するならば、労働者が自分たちで新たな理想国家を築こうとする気運が高まります。


社会主義者の有名人には「資本論」を書いたカール=マルクスがいます。資本論で、彼は資本主義批判しました。(てっきり僕は資本論は資本主義に好意的な本だと思っていましたが、資本主義を批判して社会主義の考え方を書いた本だったんですね)

マルクスは資本主義経済を分析し、国家論、歴史、哲学なども含むマルクス主義と呼ばれる社会主義思想の体系を作り上げました。


ロシアも社会主義国の代表ですが、マルクス主義に最初に着目したロシア人はプレハーノフです。プレハーノフはジュネーブに亡命中の1833年、労働者解放団という結社を創設します。


この労働者解放団が後々のロシア社会主義民主労働党へと発展します。同党のなかで、西欧型の大衆政党を志向するメンシェビキ、少数精鋭よしとするボリシェビキという2つの派閥に分かれます。

ロシア革命が勃発、戦争の停止を訴えるレーニンがロシアに帰国

20世紀初め、一口に列強といってもその力はバラバラで互いに差は大きいものでした。この当時のロシアは国土の人口の点では他国を圧倒していたものの、総合的にはみれば列強のなかでも下位グループに位置していました。


そのため、第一次世界大戦という総力戦においてすぐに限界を迎えます。第一次世界大戦下のロシアは兵器の生産を優先したため、都市部では深刻な食糧不足にみまわれて、市民が餓えていきました。


ロシア革命では、こうした飢餓状態にくわえ、物価の高騰や戦死者の増加などが重なったために、一般庶民が立ち上がりました。


国際婦人デーにあたる1917年3月8日、当時のロシア首都ペテログラードの工場で働く女性たちが「パンをよこせ」と叫びながらストライキを開始します。これに男性労働者たちも呼応して大規模なデモへと発展しました。さらに、そのストライキの鎮圧を命じられた軍隊も反乱を起こしてデモに合流する事態となりました。


この非常事態に対してツァーリ(皇帝)政府はなす術なく、ついには崩壊してしいきます。


ツァーリ政府に代わって臨時政府が発足しましたが、同時に各地に兵士や労働者によるソヴィエト(評議会)が組織されていきました。


ここまでがいわゆるロシア革命の前半戦で、三月革命と呼ばれるものです。この時点で臨時政府が大戦から手を引いて、食糧問題を解決できていれば、革命は収束していたのかもしれません。


しかし、臨時政府は同盟を組むイギリス・フランスを裏切って、単独で戦線離脱するわけにはいかないと考えていました。労働者解放団で多数派を占めるメンシェビキも、祖国防衛のため戦争継続を支持していました。


一方、戦争反対を唱えていたせいでスイスに亡命していたのがレーニンです。ボリシェビキの指導者としてレーニンはロシアへの帰国方法を模索していました。


東部ではロシアと、西部ではイギリス・フランスと戦っているドイツとしては、ロシアと停戦できれば西部戦線に専念できると考え、戦争反対を唱えていたレーニンの支援を決めました。


そこで、ドイツはレーニン夫妻などスイスに亡命中のボリシェビキ指導者たちをロシアに送り、ロシアを混乱させようと画策します。


はからずもレーニンとドイツの思惑は一致したことで、レーニンたちにドイツは「封印列車」を用意しロシアへと帰国させました。レーニンたちがドイツで途中下車して革命運動をしないように目的地まで列車を封印したことからこのように呼ばれました。


ドイツの狙い通り、帰国したレーニンは「四月テーゼ」とういマニュフェストを発表して、戦争の即時停戦とソヴィエトへの権力集中を訴えました。これによってソヴィエト内のボリシェビキの支持を拡大させたレーニンは、臨時政府の弾圧を受けながらも、1917年11月に武装蜂起。臨時政府を倒して、ボリシェビキを中心とするソヴィエト政権を樹立させます。これを十一革命と呼びます。

社会主義国ソヴィエト社会主義共和国連邦の誕生

レーニンの活躍により誕生した社会主義政権を軌道に乗せるためには、「四月テーゼ」の通り、第一次世界大戦から手を引く必要がありました。


同年12月、レーニンはさっそくドイツと休戦協定を結びます。そして、翌1918年3月にはブレスト=リトフスク条約を調印。ソヴィエト政権は巨額な賠償金の支払いに加え、大幅な領土割譲とウクライナ独立の承認などを約束させられました。(もっとも同年11月、ドイツでも革命が起きたことで、ソヴィエト政権は同条約の破棄を通告し、ドイツ新政権もそれを認めたのですが。)


資本主義を唱えるアメリカやイギリスにとって、ロシア革命は受け入れがたいものでした。社会主義は資本主義を否定するもので、自国内でロシア革命に感化され、革命運動に走る者が出てくる危険性があったためです。


そこで、アメリカ、イギリス、日本などは、ロシアに支配されていたチェコスロヴァキア軍の救出を名目とした干渉戦争に踏み切ることにしました。日本のシベリア出兵は、この対ソ連干渉戦争の一つです。


ロシア各地でも革命に抵抗する動きは見られましたが、ソヴィエト政権が新たに組織した正規軍(赤軍)の活躍に加え、民衆の激しい抵抗を受けて、1922年末までに反革命軍は鎮圧されました。外国軍もすべて撤退することになります。


連合軍を退けたソヴィエト政権は1922年12月、ロシアやウクライナなど4つの社会主義共和国による連邦国家という形で、ソヴィエト社会主義共和国連邦を形成します。こうして世界に資本主義陣営という対立構図が出現することになりました。

ここから資本主義国家と社会主義国家の争いへと発展していくのですが、それは次の機会にしたいと思います。

レーニンとは何だったか

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