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文による支配を目指した宋と、武力により世界をつないだモンゴル帝国

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文による支配を目指した宋の苦悩

漢民族と北方民族の混成国家として繁栄を築いた唐は、黄巣の乱という塩の密売人による反乱がきっかけで崩壊し、五代十国と呼ばれる分裂期に入ります。それを統一したのが宋です。

宋は文治主義という、武力ではなく、文(学問)の力による統治を目指しました。その代表例が中国独特の官僚登用試験として完成した科挙です。儒学の試験に合格さえすれば出自に関係なく官僚に登用され、出世が約束されるというシステムでした。

宋は漢民族による統一王朝でしたが、周辺諸民族に圧迫されることも多々ありました。唐文化の影響によって独自の文字を作るなど、周辺諸民族が成長していたことで、漢民族が圧倒的な優位を立つことが難しくなっていました。

宋が成立する前から、中国北方には遼という契丹人の大帝国があり、燕雲十六州という漢民族の居住地域を支配していました。

しかし、1115年、遼の支配から抜けだした女真人の完顔阿骨打が金を建国し、1125年にはその遼を滅ぼします。さらに金は1127年、宋の首都である開封を攻め落とし、華北一帯を支配下に置きました。これによっていったん宋は滅び、同年に中国南部の臨安に都を置いて南宋が成立しますが、1279年にモンゴル帝国に滅ぼされたことで、再び中国統一を果たす夢は叶いませんでした。

宋姉妹―中国を支配した華麗なる一族 (角川文庫)

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モンゴル高原騎馬民族が世界を席巻

宋の後で中国を統一を果たしたのは、遼よりもさらに北にあるモンゴル高原からやってきたモンゴル族です。その最大版図は、過去のどの王朝よりも広大なものになっていました。

モンゴル族の飛躍は、チンギス=ハンという類稀なる英雄の登場をきっかけにしました。チンギスが指揮するモンゴル軍は無敵の快進撃を続け、彼の死後も金を滅ぼして華北を支配下に置くと、中央アジアからイランへと進み、版図を広げていきました。

なぜ、モンゴルはこれほど短期間の間いに強大化したのか、その強さの秘密はなんだったのでしょうか。

モンゴル強大化の一つの理由として、千戸制という効率化された行政・軍事システムが挙げられます。諸部族を統合して、1000人を1単位とする舞台に編成し直したのです。これはそのまま平時の行政単位でもあります。

第2の理由は、全兵士を軽騎兵とする機動力の高さです。兵士が1人が5~6頭の替え馬を用意し、馬が疲れて潰れたら次の馬に乗り換えました。これにより、それまでの軍隊からみると、想像もできない驚異的な機動力を発揮しました。

第3の理由は、出自に関係のない人材の登用です。チンギスは耶律楚材(やりつそざい)に代表される契丹人をはじめ、ウイグル人やイラン人など、役に立つと判断した者なら誰でも登用しました。征服した農民から土地を奪うのではなく、徴税することで国家財政を確保するやり方を採用したのも、農耕地帯の行政に通じた者の献策を採用した空です。

第4の理由に、中央アジアを拠点とするウイグルムスリム商人の存在です。遠距離交易を営む商人からすれば、商圏が複数の国にまたがっているよりも1つの国に収まっていた方が都合がよいことも多くあります。治安が確保されるシ、関税負担も少なくなるからです。だからこそ、商人たちは大帝国の誕生を心待ちにしました。そして、それをなしうる英雄チンギス=ハンが現れたときには商人は彼を後押ししたのです。

漢民族を征服したモンゴル帝国

2代目オゴタイの時代には、甥バトゥを総司令官とするロシア・東欧への遠征が行われ、行く先々で勝利を収めます。さらにのちに5代目となるフビライが1254年に大理国を、1279年に南宋を滅ぼしたことで、中国の統一を果たしました。なお、南宋の滅亡うう前の1217年、フビライは大都(今の北京)を首都とし、国号を元と定めています。

中国の支配者となったフビライは税収の源となる中国の産業・経済には関心があったものの、中国の文化には興味がありませんでした。しかし、チベット仏教の高僧パスパを国師とあおぎ、帰依しました。チベット仏教側もモンゴルの後ろ盾を受けて布教を開始します。

さらに、モンゴル人を頂点に位置付け、イランなどの西域出身者を色目人金王朝統治下に居住した漢民族女真人・契丹人・高麗人などを漢人、何層の支配下にあった漢民族を南人と呼んで区別します。この中で官僚に重用されたのは色目人と呼ばれたイラン人などであり、漢民族は長官になれないなど、出世の限界がありました。

巨大化したモンゴル帝国は、フビライの時代から徐々に緩やかな連合体となっていきます。東アジアの元を宗主として、黒海北部に広がるキプチャク=ハン、西アジアのイル=ハン、中央アジアチャガタイ=ハンが緩やかに結びつく体制を取っていたのです。

しかし、フビライの子孫たちは、チベット仏教を深く信じるようになり、相次いで大規模な寺院を造営したことで財政を傾けてしまいます。

そして、1351年に紅布の乱が起こると、その反乱の波はたちまち中国各地に広がります。1368年、鎮圧しきれなくなった元は中国を捨ててモンゴル高原へ去っていきました。

ちなみに現在の中国では、清と並ぶ征服王朝の一つとして、元も中国史の一部に数えています。

※チンギス=ハンに対して、日本では征服者のイメージが強いかもしれませんが、彼がいたことでアジアとヨーロッパの文化の交流が活発になりました。「地に境なく人に差別なし」の理念の元、あらゆる人種、宗教、文化、地域を取り込み、史上最大の帝国を築き上げた征服者チンギス・ハンもアレクサンドロスと並び称される今の世界を創った英雄・偉人の一人です。

チンギス=ハンの半生を書いた小説「世界を創った男 チンギス・ハン」を紹介します。チンギス=ハンも他の英雄と同じく、幼少期から青年期にかけて氏族からうとまれる不遇の時代を過ごします。

何度も敗れて逃走した。自らが傷ついたこともあれば、全軍壊滅の惨敗を喫したこともある。史上の英雄でこれほどしばしば負けた者は珍しい。このような状況にもかかわらず、チンギス・ハンが最終的に勝ち残れたのは、勇気と幸運に恵まれ、的確な情報・知識を提供してくれる支持者・共感者を持っていたからです。

ハラハラ・ドキドキさせる展開を楽しみながら、彼の逆境から立ち上がる生き方が、私たちに勇気と希望を与えてくれると思います。

rekiblo.hatenablog.com
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