読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

ビスマルクによるドイツ建国とバルカン半島の独立戦争、このとき第一次世界大戦の火種が既にくすぶっていた


※ヴィルヘルム一世の戴冠式の様子(引用元:wikipedia)

「鉄」と「血」でドイツ統一へと突き進む

今日のテーマは『ドイツの近代化』です。中世のドイツは、はっきり言ってその当時の時代遅れの国でヨーロッパにおける存在感はさほど高くはありませんでした。

というのも、中世ドイツは日本の戦国時代のように、なんとなくドイツ人という意識があってもまとまりがあるわけでなく、プロイセンを筆頭にドイツ国内で各貴族が自分たちの領土を維持するために小競り合いをしている状態でした。

そんなドイツも近代化が進められる中ですでに産業革命が終わっていたイギリスやフランスに対抗意識をメラメラ燃やし、国としてまとまっていくそんな姿勢が面白い時代です。


中世ドイツでもフランス革命に影響を受けて、プロイセンが国民軍を作るなど改革が進められました。しかし、フランス革命と異なった点は、市民が望むような憲法と議会の整備が出来ませんでした。


フランス革命以降、自由主義国民主権などの考え方は当時の知識人や学生、新興市民階級などに広がりました。


そして、1848年の三月革命で一定の改革は進みましたが、プロイセンを始め、ドイツの領邦国家では貴族中心の身分社会を徹底的に崩すほどに影響があったわけではありませんでした。


三月革命では各領邦の代表が集まり、フランクフルト国民議会が開かれ、ドイツ統一が討議されました。


フランクフルト国民議会では、ドイツという国としてまとまるために誰をリーダーにするのかが話し合われます。プロイセン中心の小ドイツ主義か、オーストリア中心の大ドイツ主義かが話し合われましたが、国民による下からの統一運動は実を結びませんでした。


やがて、焦点はオーストリアか、プロイセンかの上からの統一に絞られ、ドイツ成立に向けてプロイセンオーストリアが対立し、普墺戦争に発展していきます。


普墺戦争プロイセンが勝利に終わり、その結果、ドイツの設立はオーストリアを排除して、1867年北ドイツ連邦が結成されることになります。


一方、オーストリアは同年、隣国ハンガリー王国の独立を認め、オーストリア皇帝が同王国の王も兼ねる、オーストリア=ハンガリー帝国という二重帝国となります。


プロイセンによるドイツ統一の陣頭指揮を執っていたのは、1862年にプロイセン首相となったビスマルクです。ビスマルクは、鉄血政策と呼ばれる軍事路線でプロイセンを強国へ押し上げていきます。


ビスマルクは結成されたばかりの北ドイツ連邦をどのようにまとめるか、普墺戦争オーストリア側についたみなみドイツの4邦国をどうやって北ドイツ連邦に編入するかという問題に悩みます。


そこで、北ドイツと南ドイツで共通の強敵と戦争することで、北ドイツと南ドイツを団結させることを思いつきます。北ドイツと南ドイツを強固な統一国家にするため隣国のフランスを共通の敵と設定しました。


自国団結のため、なんとかフランスとの戦争に持ち込みたいビスマルクは、フランス皇帝ナポレオン3世に対して挑発を繰り返します。挑発に怒ったフランスは1870年、プロイセンに宣戦布告し、普仏戦争が始まりました。


ビスマルクの思惑通り、南ドイツの4邦国はプロイセン軍に合流しました。勢いに乗るプロイセン軍はフランス軍を圧倒し、開戦から40日でナポレオン三世を降伏へと追い込みます。


プロイセン軍の勢いは留まることを知らず、翌年にはパリまで侵攻し、ヴェルサイユ宮殿で、プロイセン王ヴィルヘルム一世のドイツ皇帝戴冠式を敢行します。これによって、ビスマルクは戦争によるドイツ統一という目的を成し遂げました。フランスからしたらこの上ない屈辱ですね。。


フランスに勝利したビスマルクは武力路線から協調路線に変更していきます。統一国家になったばかりのドイツ国内を整備するためには、しばらくヨーロッパで大きな戦争が起きない方がいいと考えたためですね。


ビスマルクは欧州域内における協調路線をとり、イギリス・オーストリアとロシアがバルカン半島を挟んでにらみ合ったときには、仲裁役を買って出てベルリン条約を締結させています。

大国の思惑に翻弄されるバルカン半島

そのバルカン半島もまた、フランス革命が生み出したナショナリズムの波に大きく揺さぶられていました。


バルカン半島ではセルビア人やギリシャ人、ブルガリア人などといった南スラブ系諸民族が暮らす土地で、長年に渡ってオスマン帝国の支配下にありました。


南下政策を進めているロシアはオスマン帝国の弱体化に漬け込み、バルカン半島への進出を目指し、パン=スラヴ主義を掲げ、南スラブ系諸民族の独立を支援しました。


南スラブ系諸民族もそれぞれ自分たちの国家を作るべきだと煽り立て、ロシアに協調してオスマン帝国を切り崩そうとしました。これに南スラブの人々は奮起し、民族独立運動を活発化させていきます。


南スラヴ形諸民族は、ロシア=トルコ戦争(露土戦争)において、ロシアが勝利し、サン=ステファノ条約が締結されたことで、独立が認められました。


しかし、ロシアの影響力拡大を危ぶむイギリスとオーストリアが反発します。


ビスマルクの仲裁で結ばれたベルリン勝利では、セルビアモンテネグロが国家として独立を認められた一方的、ブルガリアオスマン帝国統治下の自治国に留められ、終戦時より領土を縮小されました。


さらに、ボスニア・ヘルツェゴビナオーストリアの統治下とすることで、反ロシア陣営の顔も立てられました。


このようにバルカン半島の諸民族の独立には、つねに周辺大国の思惑が絡んでいました。大国の勢力拡大にナショナリズムが利用される形となって、バルカン半島ではこの後も不安定な状態が続いていきます。


フランス革命で生まれたナショナリズムに基づく国民国家づくりは、どこでもうまくいったわけではなかったのです。


このとき、既に第一世界大戦の火種が既にくすぶっていたわけですね。