分散されていた権力を再び中央に戻した豊臣秀吉の政治・経営的手腕

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日本の近世=自力解決が否定される時代へ

応仁の乱から続いた戦国の世は、16世紀半ばのヨーロッパ来航が一つの引き金となって、織田信長豊臣秀吉による天下統一へ進みます。


日本史の時代区分では、これ以降を近世としていますが、そこには、中世における権力が分散した状況から、近世に至って一元的な権力が出現するという大きな変化がありました。


中世には、全国を一元的に支配する権力者は存在しませんでした。鎌倉時代も、武家と公家による二次元的な支配が行われていたと捉えられています。


幕府が調停を圧倒していたわけではなかったことは、北条氏が将軍として認められなかったことからも明らかでしょう。室町幕府の力は脆弱なものでしたし、戦国時代にはもちろん大名が群雄割拠していました。

しかし、そのように権力が分散し、上から押さえつける力がなかったからこそ、自立の気風が強まり、惣村などの自治組織が結成されて、実力で要求を貫徹しようとする一揆が、様々な階層から幅広く行われたとも捉えられます。


中世が実力社会であったことと、一元的な権力が存在しなかったことは、表裏一体の関係になっていたのです。


これに対して、統一権力が出現した近世は、紛争や問題を自力で解決することが否定される時代となりました。

豊臣秀吉が大名間の私闘を禁じた惣無事令

秀吉が全国の支配者の立場から諸大名に対して戦闘の停止と領地確定の秀吉の委任をめ命じたもので「惣無事令」と呼ばれています。


1585年に九州地方の諸大名に発した惣無事令を皮切りに、1587年には関東・奥羽地方の諸大名にも出され、前者は島津氏の、後者は北条市の武力討伐の根拠となりました。1590年に、小田原を攻めて北条氏政を滅ぼし、さらに奥州の伊達政宗も臣従の意を示して、秀吉は天下統一を実現します。


さて、惣無事令は「成敗」の語が見られる通り、中世のケンカ両成敗法に由来すると考えられます。喧嘩両成敗というと、現代では「喧嘩したらどちらもお仕置き」のような意味で用いますが、本来は、国人たちの盟約などに盛り込まれていたものです。


国人たちは神のもとで一味同心を誓い、一揆の決定事項を個人的な事情に優先させることを約束し合いました。もめごとが生じても血縁に寄らず理非の審理に委ねる、という了解のもの、一揆の参加者が私闘によって紛争を解決することは禁じられ、喧嘩口論は理由の如何を問わず双方が罰せられることになっていたのです。


この喧嘩両成敗の規定を、戦国大名は国人から奪い上げ、自ら定めた分国法の中に取り込みました。戦国大名は領国支配を打ち立てる過程で国人たちを家臣としていきましたが、彼らが自主的に取り決めをすることを許さなかったのです。


それは、第一に国人の自力解決の否定を、第二に戦国大名裁判権の確立を意味しました。「今後は俺様が全部決める、だから家臣となったお前らは私闘で決着をつけてはいけない」ということです。


自分たちで喧嘩両成敗を取り決めるのと、戦国大名から与えられるのでは、意味合いがまったく異なります。


話を戻すと、秀吉の出した惣無事令は全国版の喧嘩両成敗法であると考えられないでしょうか。


戦国の世に大名同士が所領を巡って争いをするのは当然でしょう。秀吉はそれを、全国の支配者の立場から禁止したのです。領地確定の秀吉への委任とは、大名自力解決を否定したものと言えます。


ちなみに、秀吉は惣無事令のほか、海賊取締令・喧嘩停止令などなど、私闘での決着をあらゆる場面において禁止しています。このようにして、自力解決が否定される近世という時代に入って言ったのです。

秀吉は朝廷の権威の利用するために関白という位に就いた

秀吉は1585年、五摂家に知行を加増するなどして取り入り、近衛前久の猶子(名義上の養子)となって念願の関白の地位を手に入れました。そして、関白として天皇から全国の支配権を委ねられているという論理を用いて、惣無事令を発したのです。


このように、秀吉は天下統一のため朝廷や天皇の権威を利用することを厭いませんでした。「天下布武」の印象を掲げ、武力による統一を目指した主君織田信長が、1582年の本能寺の変で志半ばにして倒れたのは信長が49歳の時です。1585年に48歳を迎えた秀吉の前には、未だ従わぬ大名が各地にいました。年齢的な焦りを感じ、現実路線に転換したということだったのかもしれませんね。


しかし、それ以上に重くのしかかっていたのが、前年の1584年に徳川家康小牧・長久手の戦いで和睦に終わったという結果です。


武田氏の滅亡と信長の横死に乗じて三河遠江駿河・甲斐・信濃の5カ国を手に入れた家康と、1583年の静香だけの戦いで柴田勝家に勝利して機内を固めた秀吉とは、いずれ戦わねばならぬ運命にありました。


信長の二男で織田家の家督を継ぐ信雄が秀吉に反発して家康と同盟を結んだことで、均衡が崩れて戦端が開かれます。戦力的には秀吉が圧倒的に有利だったものの、局地的な緒戦では秀吉の甥秀次を敗走させるなど家康方が勝利を治め、結局、信雄・家康ともに人質を差し出す条件で講和しました。


ですから、形式上は信雄・家康方の敗北で、秀吉は家康を上洛させ、大阪城で諸大名を前に臣従を誓わせています。しかし、武力で完全に屈服させたわけではありませんでした。家康はその後、天下統一事業を阻む壁として立ちはだかります。特に、征夷大将軍への任官を不可能としたのが家康の存在でした。小牧・長久手の戦いの結果が、路線転換の分岐点になったのです。


秀吉は1586年、太政大臣を兼ねるとともに後陽成天皇から豊臣の性を賜ります。そして、1588年、京都に造営した聚楽第への後陽成天皇行幸を実現しました。秀吉は諸大名を聚楽第に呼び寄せ、関白秀吉の命令に従うとの起請文を提出させています。天皇を利用して、自らへ服従を誓わせたのです。

大名知行制=封建的主従関係の回復

関白の名の下に惣無事令を発すると言うカードを手に入れた後、秀吉の天下統一事業は極めて効率的になりました。一方で、命令違反による武力討伐をにおわせ、一方で所領の安堵をちらつかせればいいわけです。もはや、武力で滅亡に追い込む必要はなくなりました。


島津氏に対しても、九州征伐の前に薩摩国大隅国の支配は約束されていたと考えられます。秀吉が先陣に乗り込む前に、ほとんど決着はついていたのです。


さて、大名に所領を安堵するにあたって基準となったのが石高です。


秀吉は、信長の意思を継いで天下統一に乗り出した1582年から2度に渡る朝鮮出兵に失敗して失意のまま亡くなる1598年まで、全国の土地を統一基準で計測・調査する太閤検地の事業を続けました。その結果、全国の土地の生産力を石高に換算して統一的に把握できるようになったのです。


全国の領主権を握る秀吉が、大名に対して石高を基準に知行地を給付し、大名がそれに見合った軍役を負担する体制を大名知行制と言います。秀吉は天下統一を成し遂げた1591年、諸大名に命じて国群別に石高を記録した御前帳と、諸国を描いた国絵図を提出させ、各大名の石高を確定しました。こうして、秀吉と諸大名とは御恩と奉公による封建的主従関係で結ばれたのです。


それは「鎌倉幕府以来の武士社会における結合の原理」が回復されたことを意味します。鎌倉幕府における将軍と御家人の間の封建的主従関係は、鎌倉幕府の滅亡と御家人制を支える惣両性の血縁的結合の動揺によって断ち切られ、その後の室町時代にはそれが前面に現れることはありませんでした。


だからこそ、国人たちは自主的に盟約を結ぶこともできたのです。縦の関係よりも、横の関係が重視されたのが室町時代だったと言えるでしょう。


転機が訪れるのは戦国時代です。戦国大名は家臣となった国人たちに収入額を自己申告させ、知行地給付と軍役負担に基づく主従関係を結びました。大名知行制はそれが全国に拡大されたものと考えられます。


こうして、秀吉-大名-家臣という関係が回復されて、近世は幕を開けるのです。

豊臣秀吉の経営塾

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